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今回は大山について
相模国(神奈川県)にある大山は江戸時代、庶民から商売繁盛にご利益があるとされ強い信仰を集めました。酒癖の悪い熊五郎が酒を呑み騒動を巻き起こす『大山参り』という落語の演目にもあるように、庶民にとってはとても楽しい娯楽的な要素も強いものだったようです。江戸っ子たちは借金の取り立てがやって来ると大山に逃げて、そこで博打を打って一か八かの勝負をした。そんな話も残っています。大山の石尊権現は博打の神でもありました。

「ぶし」のルーツ
なぜ大山のような聖地で博打を打つ賭場が開かれていたのでしょうか?そこには山伏の文化との関わりがありました。山伏の歴史は古く、「山伏」という言葉は「山」よりも「ぶし」という古代語の方に重点があるように僕は思います。もともと「武士」も「山ぶし」や「野ぶし」から生まれた存在でした。「山ぶし」や「野ぶし」とは信仰や芸能を携え、武力を持つ人々のことをあらわした言葉です。戦国時代になるとその仲間から大名にまで成り上がる者も生まれました。徳川家のルーツも徳阿弥と呼ばれる山伏のような存在であったといわれ、豊臣秀吉も芸能などをおこなう貧しい階級出身であり野ぶしのような生活をしていたと考えられています。

山ぶしの仲間たち
このような「ぶし」の仲間は傭兵として戦に参加していましたが、江戸時代になると行き場を失いました。やがて石がゴロゴロしているような生活をしている無宿者、無職渡世を意味する「ゴロツキ」となった彼等は、持っていた信仰・占いの技術を利用して博打をおこなうようになり、そこから博徒が生まれたのでした。そう考えてみれば、現在の権力者たちも、ヤクザたちも同じ「山ぶし」のような存在から発生したと言うこともできるでしょう。大山は山伏の文化・修験道の盛んな場所でもありましたから、そこが博打と関わりがあるというのは納得のいくところです。

阿夫利とは雨降りの意味
しかし、それ以前の大山の神には、また別の姿をみることができます。大山の山頂にある社を阿夫利神社といいますが、阿夫利とは雨降りのことであり、社の背後にある山のご神体である、巨岩の表面が湿ると雨が降ると言われる、天候と関わりのある雨乞いの山でもあったのです。

大山に行ってきました
よく晴れた夏の日。都内から東名高速を走って、海老名を過ぎると街越えに丹沢山系が視界にあらわれます。この記事を書くために大山に向かっていましたが、ずっと先にみえた大山には雲がかかっていました。下界はかんかん照りなのに、大山の山頂だけに雲がある姿を見ていると、まるでそこから雲が生まれてきている様にもみえました。かつての人々が、大山は天候を司る山であると考えたのも分かるような気がしました。
歌人でもあった鎌倉幕府の将軍・源実朝は「時により過ぐるは民の嘆きなり八大龍王雨やめ給え」と歌いました。八大龍王は石尊権現以前に大山の神と考えられた存在です。鎌倉から大山方面を眺め、大雨の被害を神に嘆く情景が浮かびます。その時代によって大山の神の姿は変化していましたが、根底には天候との関わりを持つ神の姿をみることができます。

大山登拝
大山へ登るには、ヤビツ峠からの登山道が最短のコースで、1時間10分程度で登ることができます。急坂も少なく、途中の木々の開けた場所では神奈川の街と海を見渡すことができる、登りやすい道です。
歩いていて目につくのが鮮やかな黄緑色をした小さな葉の植物です。スズカゼソウという姿通りの美しい名前を持っていますが、この植物は鹿が食べることができず、スズカゼソウが目につくということは、他の植物が鹿によって食べ尽くされたことを意味する、鹿害の象徴ともされる植物です。日本の山の多くが鹿によって被害を受けていますが、数年後の日本の山々がどのような状態になってしまうか気になるところです。

房総にも大山信仰があります
山頂に着くと、辺り一面真っ白でした。晴れた日には富士山や海を隔てた房総半島を眺めることもできる見晴らしの良い山なので、少し残念でした。実際、房総からは大山がよくみえます。そのため、雨乞いの神として特に厚い信仰が広がっていたようで、房総の山々に石尊権現の祠をよくみかけます。

「ふりう」って何?
房総の鴨川では普利雨(ふりう)祭りといって、石尊権現を祀る雨乞い祭りがおこなわれていました。普利雨は、京都でおこなわれていた「風流(ふうりゅう)」という異風の行列踊りに、雨乞いの意味を付け足したものと考えられます。「ふり」という古代の言葉は朝鮮半島では神が訪れることを意味し、日本古代の祭りでは「鎮魂(たまふり)」とも呼ばれ、神のたましいである「たま」の力をふるい立たせる「わざ」を意味しました。
この「ふうりゅう」という言葉が江戸時代に入ると「かぶき」といわれる様になります。「かぶき」には乱暴狼藉をはたらくという意味もあり、「かぶきもの」とはまさにそのようなゴロツキでした。
「ゴロツキ」が「山ぶし」から生まれたものであるとは先に説明しましたが、「かぶき」の文化もまったく同じところから生まれたのです。

「かぶきもの」の文化
歌舞伎のはじまりは名古屋山三というゴロツキが出雲阿国という巫女に教えた踊りであり、後に名古屋山三が斬り殺され、阿国が亡霊となった山三と、その魂を鎮めるために問答を交わして「いざやかぶかん」といって踊るところから「かぶき」となりました。そこからは日本芸能の根底に流れる信仰のあり方を知ることができます。『好色一代男』の井原西鶴、『曾根崎心中』や『女殺油地獄』の近松門左衛門、『奥の細道』の松尾芭蕉も「かぶきもの」の文化を生きた人たちでした。

教科書にのっていない日本文化
このように、山の文化を掘り進めていくと、どんどんと日本文化の隠れた表情が浮かび上がってきます。それは学校の教科書にはのっていないものばかりです。「山ぶし」の文化は、遠い世界の話ではなく現在の僕たちの暮らしの根底にしっかりと流れているのです。まだまだ書くことはたくさんあるのですが、あまり長くなっても良くないのでこの辺でまとめたいと思います。
今回は触れませんでしたが大山や丹沢の山々はかつて修験道がとても盛んな山でした。現在では失われてしまった文献だけに残る山伏たちの道もたくさんあります。そういった道を再び見つけだすということも面白いことだと思いますので、また機会があれば書いてみたいと思っております。

【僕たちと山 アーカイヴ】
♯01 仙元山(神奈川県・葉山町)

(文 /イラスト 坂本大三郎)