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焼き物の町として知られる栃木県益子町。ここの最高峰、標高533mの雨巻山は近隣のトレイルランナーにはよく知られた山だ。ローカルイベントながら毎回活況を呈す「トレラン益子」がこの山を走るからだ。

雨巻山の登山口に現れた佐藤千大(ちひろ)さんは、清々しくイキイキとしたナイスガイ。引き締まった足とミニマルな装備は、彼が熟練のランナーであることを物語っている。と同時に、その溌剌とした立ち振る舞いが物語らないことがある。彼は現役の消防士で、夜勤明けで寝ずにこの登山口へやってきたということ。

足取り軽く、雨巻山を駆け上がっていく佐藤さん。夜勤明けの疲労など微塵も感じさせない。しかし行く手に水の滴る岩場が現れると、佐藤さんの表情が引き締まる。

「ここは以前にハイカーの方が下りで転倒して怪我を負いました。少し先に、空が開けているところがありますよね。そこからヘリコプターで救助をしたんです」

芳賀地区広域行政事務組合消防本部・真岡消防署の救助隊長。人命救助をミッションとしてもう23年になるという。

夜勤明けとは思えない軽やかな足取りで、テンポよく登っていく佐藤さん

アーリーアダプトなトレラン体験

佐藤さんがトレイルランニングに出合ったのは、日本にそのカルチャーが紹介されて間もない2002年ごろだったという。たまたま通っていたアウトドアショップに案内されていた、パタゴニア主催の石川弘樹さんによる1泊2日の八ヶ岳でのトレランイベント。これに気軽に参加したことが全ての始まりだった。トレイルを走るという新しい楽しみに、佐藤さんは出合った。

「トレランは野生に還る感覚があって、面白かったですね。とはいえ、栃木に戻ってみると、どこを走ったらいいのかわからない。それで近所にあるこの雨巻山を走り始めたんです。2002年当初、メインルート以外は荒れていて、トレイルを気持ちよく走れるような状態ではありませんでしたね」

ホームトレイルの雨巻山を走る佐藤さん。スムーズな路面は、走ってもよいし、もちろん歩いても楽しい山だ

佐藤さんが気持ちのよいペースで案内してくれた雨巻山は、コンパクトながらとてもスムーズな路面で、それでいてサーフェスは変化に富んでいる。そこかしこに、ちゃんと人の手が入っているトレイルだと感じられる整い方だ。平日の朝でも登山口の駐車場にはひっきりなしに県内、隣県ナンバーのクルマがやってきていた。

「雨巻山には、『益子いくべ会』という山岳会があって、走っているうちにそこのボスと顔馴染みになったんです。向こうも自分たちを通じてトレイルランニングに興味を持ってくれました。石川弘樹さんから教わった、“山で会ったら挨拶しよう”、そういったマインドが、同じ山を愛する仲間として山岳会の方達に伝わったのだと思います」

驚くべきことに、この雨巻山を舞台とする「トレラン益子」は、トレイルランナー主導ではなく、『益子いくべ会』の希望によって始まった大会なのだという。それだけ、この山では佐藤さんをはじめとしたトレイルランナーのマナーの良さと醸成された文化が認められているということだろう。

雨巻山のハイライト「タイタニック岩」は、その名の通りの絶壁の絶景が広がる、佐藤さんのお気に入りスポット。

ディレクター的な立場で携わる「トレラン益子」には、その想いが実現している。

「1番のコンセプトは、初心者が来て楽しく走れること。ゲストランナーを呼ぶのも、和気藹々とやりたいと思ってのことで、ガチンコのレースにはしていません。新しく始めた人にこそ、トレイルランニングの楽しさに触れて欲しい。この雨巻山でそんなトレイルカルチャーを作りたいんです」

一個一個が生命と直結

消防隊長として、日々人命救助にあたる責任の重さは、本人も自覚している。大好きなトレイルランニングとの付き合い方も、身体への負荷がかかりすぎない線引きをしたうえで、楽しんでいる。

「体調は常に万全でいたいと考えています。地域住民の生命・身体に直結することでもあるので、そこは自分でも怪我をしないように心がけているんです」

そんな佐藤さんにとって、自宅からもほど近く、夜勤明けの午前中でも走り切れる雨巻山のトレイルはぴったりだった。何より、自然の中で走ることが身も心も軽くしてくれるのだという。

「私たちの仕事は、一個一個が生命と直結していて緊張感もあり、大きい建物火災があれば一回の事案で体力もすごく使います。そんな中で、トレイルランニングは自分の中に、日常のひとつのルーティンとして根付いています。自然の中に入り、軽く走ることで色んなものが取り除かれてクリーンになって、また登山口へ戻ってくる、そんな感じなんです」

益子エリアのトレイルコミュニティ

無闇に速さやパフォーマンスを求めるのではなく、日常の一つとして、あるいは心身をリフレッシュしてくれるものとしてのトレイルランニングと山との付き合い方。日々緊迫した状況を生きる消防隊長は、自然の中を爽快な笑顔で、本当に楽しそうに駆け抜ける。

そんなリラックスした佐藤さんの表情を、この日雨巻山を走り終わってから2箇所で見ることになった。いずれもこの地のトレランコミュニティのハブとなっている場所だった。

ひとつめは、「cafe マシコビト」。カフェでありながら店内にはトレイルランニンググッズが所狭しと置かれ、有名ランナーのサインやウェアが壁に飾られている。店長の黒子善久さんは、栄養士であり、アスリートのサポートにも情熱を注ぐ。彼を慕って、多くのランナーがこの店に集まるという。

cafe マシコビト店長の黒子さん。店舗では有名アスリートのサポートも行っている
グッズの物販も行う店内にはトレイルランナーゆかりの品も多く展示されている

ランナーも満足間違いなしのボリュームたっぷりなランチをいただいた後、佐藤さんが向かったのは真岡駅前。ここには、市の指定文化財である石蔵を用いた、山遊び好きが集まる店がある。ガレージブランドNRUC(ヌルク)のアトリエ、セレクトショップの「セガール山道具店」、カフェ「ズッコケコーヒー」が一堂に会し、洗練されつつもオープンな雰囲気の空間が広がっていた。佐藤さんも、カフェでの世間話に花が咲く。

人のために尽くす佐藤さんは、この地のトレイルコミュニティにとても慕われている
石蔵を改装した「セガール山道具店」。ガレージブランドNRUC(ヌルク)のアトリエ、カフェ「ズッコケコーヒー」が同居する

トレイルランニングを通じたこの地のコミュニティは、彼にとって山を走ることと同じくらいに日常であり、重要なもの。そしてだからこそ、トレイルランニングの価値をこの地から高めたいという思いも抱いている。

「今後は、山の中のファーストエイドを伝えていきたいと思っています。トレイルランナーの機動力は、山で何かあったときの救命や連絡に活きるはずです。今後このエリアでイベントができるようになれば、そういったことを少しずつやっていくことで、トレイルランニングの価値を一段高められるんじゃないかと」

消防隊長として地域住民に、イベントディレクターとして初心者に、いちランナーとしてトレイルランニングそれ自体に。佐藤さんはいつも自分のためではなく、誰かのために動いている。そんな彼と、彼を取り巻くこの地のコミュニティが、これからどんなカルチャーを作っていくのか、楽しみでならない。

佐藤千大
芳賀地区広域行政事務組合消防本部・真岡消防署の救助隊長。石川弘樹さんによるトレイルランニング講習に参加したことがきっかけで、山を走り始める。地元の雨巻山を舞台とする人気イベント「トレラン益子」の運営に携わるほか、雨巻山を取り巻くコミュニティ「AMAC」を主宰する。Instagram:@chippe55
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