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2017年に世界で初めて、ヨセミテのエル・キャピタン『The Nose』をロープソロで登り、世界にその名を轟かせたクライマーの倉上慶大さん。群馬県に生まれ、新潟、京都を経て、現在は埼玉県の西部、日高市に暮らす。世界の難壁に挑み続けるクライマーがこの地に住み続ける理由、倉上さんのワーク・スポーツ・ライフバランスとは?

埼玉県飯能市、名栗渓谷。都心部のトレイルランナーやサイクリストにとっては馴染みある奥武蔵エリアだが、クライマーにとっても魅力的なフィールドだと倉上さんは言う。

「昨年はコロナ禍もあり県外移動ができなかったので、近所の登れる岩を探し歩きました。すると、意外とあるな……! と気づかされました」

この日取り付いた渓谷の岩場も、コロナ禍の開拓で見つけ出したものだ。奥まった林道の、さらにその奥に鎮座する川沿いの岩。窪みに残るチョークの跡が、この岩が熱心なクライマーを惹きつけていることを示している。テーピングを指に巻きつける動作はある種の儀式のように淡々と、しかし1mmのズレも無いように入念に行われる。見ると、指先には無数の切り傷。クライマーの手だ。

倉上さんは転職を機にこの埼玉県西部にやってきた。国内外の岩や壁を求め旅をするクライマーだった倉上さんをシューズブランドのScarpaがサポートしていたこともあり、輸入代理店のロストアローにて働き始めたのは2014年。この会社が埼玉県鶴ヶ島市に本社を置いていたことから、倉上さんの埼玉西部暮らしが始まった。半導体のエンジニアからアウトドア業界へ、異色の転身だった。

埼玉県の西側、山と街の境界

埼玉県西部は、倉上さんのライフスタイルにとって実に住みよい場所だという。「夏や秋によく登る長野県の小川山や山梨県の瑞垣山まで、車で2時間ほどとアクセスがいいんです。冬の間は秩父の石灰岩の壁を登りますが、こちらにもアクセスしやすい。それにクライミングジムが近くにあって、人から刺激をもらえるのも大きいですね。一時期は山梨に引っ越そうと考えたこともありましたが、やっぱりここはいいですね」

埼玉県日高市は、関東平野の西の終わり、秩父山地が始まるあたりに位置する。東京都市圏からおよそ50km、街と山の境界に位置するエリアだ。倉上さんが挙げたクライミングジムは、隣町の飯能市にあるBoulder Park Base Campのこと。ジムのプロデュースを担当する平山ユージさんもこの地に拠点を置いているほか、安間佐千さんもご近所さんだとか。世界に名だたるクライマーが集まるコミュニティがこのエリアにはある。

日中とはいえ真冬の渓谷。手をかけた岩も冷え切っていた。「冷たい!」と言いながら倉上さんはすいすいと登っていく。撮影のため何度も登ってもらっているうちに、難しい課題に行き当たった。倉上さん曰く、難易度は2段。上級者であればウォームアップで登れるグレードだという。だがトライを繰り返すものの、なかなかホールドが掴めない。聞けば今日で4連登、鋭いホールドを掴む指が痛む。しかし、取り付いてしまったからには登り切りたいと目の奥は燃えている。

何度ものトライのあと、「あと2回だけ!」と泣きのラスト2トライ。こちらはただファインダー越しにその進展を見つめるだけだが、その2回とも掴めずに落ちてしまった。それでも倉上さんは、またホールドの位置を確認して、イメージを深めている。視線は常に岩にあり、こちらには一瞥もくれない。まさしく岩と対話しているようだった。その後も掴めずに落ちること数度。それでも、何か核心に近づいているような感触はこちらにも伝わってくる。そしてトライ、これまで十数回は弾かれてきた右手のホールドを掴んだ! 見事、完登。

倉上さんはほっとしたような、それでいて嬉々とした表情を岩の上で浮かべた。聞くと、成功したトライでは先に掴んでいた左手の感覚を鋭敏にするため、岩に取り付いてから目を閉じたのだそう。「ひとつの感覚をシャットアウトすることで、他の感覚が敏感になるんです」とこともなげに言う。失敗に見えた先の何度ものトライも微調整の積み重ねであり、全てがこの完登へと収斂していくクライミングの魅力を、肌で感じた。

「クライミングというのは不思議なもので、自分の実力や岩を見る目を養うとラインが見えてくるんです。最初は大きく見えた壁が、だんだん小さく見えてくる。それでもある時には大きく見えたりするんですが、壁が等身大になっていくんですね。不可能と思うとラインは見えなくて、可能性があるかもしれないと思うと、ラインが見えてくる……すごく面白いところです」

尺八の自由と多様性に魅了される

課題をクリアすると、倉上さんはおもむろに尺八を取り出した。一瞬、理解が追いつかず困惑する。尺八は、おもむろに取り出せるほど私にとって身近な楽器ではなかったから。しかし倉上さんにとって、尺八はクライミングと分かち難く結びついたものなのだ。彼のクライマーとしての今の思想、スタイルを端的に表すものなのであった。

「同じくパタゴニアのクライマー、ニコラ・ファブレスとショーン・ヴィラヌエバ・オドリスコールが楽器を弾くことに感銘を受けたんです。ひとりはギター、ひとりは縦笛を、壁の中に持っていくんですよ。しかもギターなんて3本も(笑) それをヨセミテで実際に目にして、すごくいいなと感じたんです。それまでの僕にとって、クライミングは難しいグレードを追い求めるもので、普段の生活と切り離されたところにあるものでした。でも彼らは、ライフスタイル、生活の中にクライミングがあって、音楽がそれを繋げている。これは魅力的だなと思い、自分も何かやりたいと。よく行く山梨に尺八のお店があって、目の前で吹いてもらったらその場で虜になりました。その日に、尺八を注文していました」

その店をきっかけに岩間龍山・都山流尺八師範に師事。今では龍心という竹号(都山流の中伝終了者に与えられる名前)をもち、フィールドには尺八を欠かさず持ち出している。ヨセミテ、エル・キャピタンの壁の中でも尺八を吹いたというから筋金入りだ。

「尺八は竹に穴が5つ空いただけの楽器です。それで西洋的な音も、日本的な音も奏でられる。口の角度、指の開き方で幅広い音が作れる。その自由で多様なところに惹かれているんです」

国内に目を向けて、繋いでいく

音楽が倉上さんのクライミングへの考え方を変えた。クライミングはライフスタイルの一部として、気負わずに、しかし常に傍らにある存在となった。2019年にはプロクライマーとしての活動を開始した彼にとって、トレーニングもまた日常。どれほど厳しい鍛錬を己に課しているのか。

外岩を登るのは週に4〜5日。基本的に晴れの日には岩場に赴いて、登る。悪天の日や、トレーニングの日と決めている場合は、午前中に指や持久力を鍛えるトレーニングを行い、午後をデスクワークに充てる。夕方からは先述のボルダリングジムBoulder Park Base Campでさらにトレーニング。タフなプロクライマーのフィジカルとメンタルはかくして作られるのか、という充実ぶりだが、昨年は新たなトレーニングも取り入れたという。

「去年はマウンテンバイク(MTB)によく乗りました。下りじゃなくて、上るのが好きなんです。根っこがボコボコした上り坂は体幹と体力を使いますし、登れるか登れないか、登り切った時の達成感が面白い。50mくらいの登り坂の攻略に2時間くらい使ったり。すごくトレーニングになりますね」

MTBの主流な楽しみ方と言えば、やはり爽快でテクニカルな下りだろう。ダウンヒルは競技種目になるほどポピュラーな楽しみ方だが、好んでアップヒルをする人は多くない。それでも上りが好き、というその嗜好には根っからのクライマー気質を感じる。こうしたMTBが身近に楽しめることも、この地域の魅力だと倉上さんは言う。実はこの地に拠点を置くマウンテンバイカーも少なくない。

「やはりローカルのプロライダーの西脇仁哉くんが言っていたのは、下りはマグレで行けるけど上りは実力勝負だということ。今までのトレーニングは上半身メインで、下半身は山を歩くぐらいしかなったのですが、アプローチだけだと脚力はつかない。MTBで全身を振り絞りながら登り坂を走ると下半身の筋力を鍛えられる。去年はMTBをやることでいいバランスを獲得できました」

コロナ禍で地元の開拓とトレーニング、そしてかねてからの目標だった小川山のマラ岩西面での初登攀という快挙を果たした2020年を経て、倉上さんの活動の方向性も少し変化したという。

「海外の難しい壁を登りたいというのは大きい目標としてあります。ただそれと同時に、国内の魅力再発見もどんどんやってみたい。これまでは年に数回は海外へ行っていましたが、その回数を抑えて、国内のトリップに使いたいなと考え始めています。海外で活動する中で、国内でどれくらい対抗できるかというのも、自分のテーマに浮かび上がってきていましたから。そうやって若い世代にプロセスを伝えて、クライミングを繋いで行けたらというのはひとつの夢ですね」

倉上さんのローカルスポット:Boulder Park Base Camp

日本を代表するトップクライマーの平山ユージさんがプロデュースを務めるボルダリングジム。開放感溢れる広々としたスペースでクライミングが楽しめる。倉上さんは隣町にあるこのジムのトレーニングコーナーが特にお気に入りだ。ホールド力を鍛えるための設備が充実している。

Boulder Park Base Camp
埼玉県飯能市緑町3-2
042-978-9450
b-camp.jp/hanno

倉上慶大
1985年群馬県生まれ。プロクライマー。岩場でのルート開拓や単独登攀に最も情熱を注ぎ、クライミングを通じて自由と多様さの表現を試みている。岩間龍山・都山流尺八師範に師事する、尺八演奏者としての顔も。2017年ヨセミテ・エル・キャピタンのThe Noseロープソロ初登(世界初)、二子山 Mare(5.14c)のロープソロ初登(ロープソロ世界最難記録)、イギリス・The Walk of Life(E9 6c)、小川山マラ岩西面での初登攀など、国内外で活躍中。keitakurakami.com

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