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まず、短距離用のスパイクといってもほとんどの方には馴染みが薄いだろう。
短距離スパイクを手に取る機会があれば、目につくのはシューズ底に付いている金属のピンに違いない。

このピンこそが、陸上スパイクが開発されたきっかけだ。

陸上競技のスパイクは100年以上前に「靴の底に金具を打ち付けたら、地面をしっかりと噛んで速く走れるのでは?」という考えから開発されたと言われている。

走るという動作において唯一のギアであるスパイクは、アスリートにとってとても重要であり、記録更新のためには無くてはならないものだ。

独自のコンピューターシステムによって開発されたピンレス構造

2015年よりアシックスの開発チームは、今回発表されるこのスパイクの開発を始めていた。

開発にあたって、選手から様々なヒアリングしている中で、選手ひとりひとりがスパイクピンの長さや形を好みで選んでいることを知る。

その理由として多く上がったのが「ピンが刺さりすぎる」というものだった。開発チームは「ピンを刺して、抜く時間と、その動作にかける力をなくすことができれば、より速く走れる靴ができるのでは」という考えを持つに至ったという。

スパイクピンはねじ込み式なので、ネジの土台を作る必要があり、それに伴いソールが硬くなって足の屈曲に制限をかけてしまう。ソールに対しても垂直にしか取り付けられないので、前に進む動きの中で斜めにピンを刺さなければいけないという無駄な動きも生じていた。

そのような様々な制限があったピンを無くすというアイデアは、意外にも初期段階で生まれた構造のようだ。
試作段階で、ピンの代わりにおろし金をつけ走ったところ、短距離のような一歩一歩に力を入れる走り方でも滑らないことが分かり、そのアイデアをソールに用いることに着手する。

開発チームはこのスパイク開発で必要な高さ、角度などの様々なパラメータをもとに独自のシステムを開発し、コンピュテーショナルデザインといわれる、コンピュータ上で多くのサンプルをシミュレーションできる技術を活用した。

それにより数々なサンプルを設計し、よりベストな構造を開発することが可能になったのだ。

しかし、データ上では理想の形ができても、実際の製造技術とのギャップもあったという。数年をかけ、様々な素材でサンプルを作り、採用されたのがカーボンプレートだ。

カーボンは薄くて軽く、耐久性にも優れており、一体成型でのプレートを可能にする。
その一方で、カーボン素材の成型性は低く、複雑な形状を安定して製造する技術を構築することに、更に数年をかけた。

そして最終的に出来上がったのがプレートに六角形の立体構造を持ったこのスパイク〈METASPRINT〉である。


アスリートにもたらす影響

2018年からは桐生祥秀選手もこのスパイクの開発に協力していた。
スパイクのプロトタイプを初めて桐生選手に渡した時、彼は9秒台を出した時に履いていたスパイクへの思い入れもあり、今まで履いたことのないこのスパイクに疑いを持っていたという。

しかし開発に協力していく中でその機能性に信頼するようになった桐生選手は、練習や公式大会にもピンレス構造のスパイクを着用するようになった。

今まで特定の選手しか履いていなかったピンレス構造のスパイク。
今回発表された〈METASPRINT〉は4月17日に一般発売されることになる。
onyourmark はその販売前に行われた最終の性能実験のテストの取材を許された。

テスト内容は既存のスパイクと、〈METASPRINT〉をそれぞれ履き比べてもらい、60m走のタイムや最高速度などを計測するというもの。


テスト当日には50名前後の現役の学生アスリートが集められ、タイムスケジュールに従って順番に走っていく。

風などの外的要因を受けないように室内競技場で行われたテストは、屋外の競技場で行われるレースとはまた違った緊張感が漂っていた。

一人一人その新しいスパイクの感覚を確かめながら走り、テストが終わる度に細かいヒアリングが行われていた。



従来の商品開発であれば選手にサンプルを渡し、何度か走ってOKが出ればそれで終わっていたという。

しかし、初のピンレス構造に挑戦したということもあり、長期間に渡って入念なテストを重ね、様々な選手の意見やデータを集めたようだ。

こうした実験を何度も行い、以下のようなエビデンスが得られた。

アシックス スポーツ工学研究所による実験では、当社短距離用スパイクシューズと比較して1秒あたり6.7cm前に進めることが認められました。これは、100m換算で0.048秒優位に走行できることに相当します。
*短距離トップ選手における60m走実験からの100m走換算:アシックススポーツ工学研究所での研究

100分の1秒を競う短距離において、この数字はかなり大きい結果だ。

実際にスパイクを履いた学生からは接地に対しての声が多く聞こえた。

「今までのようにスパイクピンが刺さる“点”でなく、足全体の“面”で接地することで、より前に進む感覚があった」など、一度の着用でも今までのスパイクとは大きく違い感じることが出来たようだ。


今回のカーボンを加工した技術は、すでにモノづくりの世界から評価されている。
カーボンファイバー、強化プラスチックなど金属以外の複合材料の展示会「JEC World」のイノベーションアワードのファイナリストにノミネートされているのだ。

日本のモノづくりの技術を表しているとも言えるこのスパイク。

着用する選手達が、記録と共に新たな陸上スパイクの概念を築く瞬間を楽しみにしたい。