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ギブ・ミー・マッスル

人生で筋肉について考えることはなかった。

順風満帆に中肉中背の人生を歩んできた。もし、宇宙人が「地球人の中肉中背を見たい」と言うなら、サンプルとして手を挙げる自信があった。だけど四十も半ばを超えた頃から、体重が落ちなくなってきた。身長175センチで体重65キロだったのが、60キロ台後半を推移するようになった。加齢で代謝が落ちた上に、筋力が落ちたことが原因だろう。

まもなくして70キロの大台に乗り、73キロ、71キロ、72キロ、74キロ……。体重は一進一退を繰り返し、時折史上最高値を更新していく。まるで株価だ。上昇トレンド時に高値更新をした株は一度下がっても、再び高値にチャレンジする。株価チャートと僕の体重に因果関係はないけれど、体重が上昇トレンドであることには違いない。やがて体重は80キロの大台に乗るのではないか。……時間の問題だ。奴は、最高値を狙う。僕は自分のわがままボディが怖くなってきた。

今から思えば、食生活もひどかった。朝はトースト、昼はパスタ、夜はとんかつ。僕は「肥満の国」に向かうエアチケットを持っていたのだ。

・片足で靴下が履きにくくなった(よろける)。
・歩く速度が遅くなった(最近、みんな早足だなと思っていた)。
・腹が減ると極端にイライラする(争いの原因は飢えだと実感した)。
・しゃがむと太ももに腹が当たる(なんて不思議な感覚だ)。
・定食屋に入ると「大盛りもできますよ」と高確率で言われる(みんな親切だなと思っていた)。

……なぜ、気がつかなかったのだろう。予兆はあったのだ。点と線がつながってきた。

「筋肉をつけるしかないな」

筋肉をつければ代謝が良くなり、ある程度の問題は解消するはずだ。危機的状況になり、ようやく僕は重い腰を上げることとなった。でも、「筋肉」について真剣に考えたことのない僕は、筋肉を付ける術を知らなかった。

重い体を引きずり、軽い気持ちでジムに通う

「とりあえず、フィットネスジムに行くか」。ざっと近隣の施設を調べると、たくさんのフィットネスジムが出てきた。自分に合うのは、集中的にトレーニングを学ぶパーソナルジムだと思った。しかし、料金がとても高かった。短期集中コースで料金は数十万。これでは身体より先に家計がやせ細る。だが、ほかのジムの価格帯は7000円から1万円程度の価格帯だった。これなら家計への影響も少ない。しかし、何も知らない者がジムに行き、効果的に筋肉をつけることができるのだろうか。グーグルマップを見ていると、近所に区営ジムがあることに気がついた。一度の利用料が400円だという。ふむ。……しばらく自己流でやってみるか。家から歩いて10分ほどの区営ジムに週に一度程度通い始めた。

当初、区営ジムということでなんの期待もなかったが、トレーニングルームには有酸素系マシン、筋力トレーニングマシンが充実していた。家の近所にこんなに充実した設備があったなんて。僕は軽く準備体操をし、ランニングマシンで30分ほど走った。その後、見よう見まねでトレーニングマシンを使ってみた。空いているマシンを見つけて足、腕、胸、腹筋とまんべんなくやってみる。マシンの横に使い方のイラストが描かれているし、間違えた使い方をしていると係員が親切に説明してくれた。

おじさんに「貴方の筋肉の目的はなにか?」と聞かれる

数回通うと少しは身体が引き締まってきた。しかし、やればやるほど疑問がわく。
一体何時間くらいトレーニングをすればいいんだろう?
負荷はどれくらいがいいんだろう?
頻度は?
フォームは正しいのだろうか?

特にわからなかったのが「負荷と回数」の関係だ。周りの人の様子や係員のアドバイスを元に、「10回でギリギリの負荷×3セット」という目安が自分の中に生まれた。スタッフにマシンの使い方を聞くと親切に教えてくれる。しかし、「マシンの使い方」や「コツ」は教えてくれるが、「トレーニング方法」は教えてはくれなかった。区営ジムで働く彼らの仕事のプライオリティは「安全確保」なのだろう。それはそうだ。様々な目的で、様々な体力・体格の人が利用しているし、個人の特性に合わせたトレーニング指導なんて不可能だ(だから、パーソナルジムが存在するのだろう)。もし、無理な負荷でトレーニングをして身体を壊したというクレームが来たら大問題だ。

トレーニング方法は独学し、その上で疑問点を聞くことにした。想像するに、係の人たちの多くは体育大学生(もしくはそれに準じた有資格者)のアルバイトのようだった。だったら理論は知っているはずだ。効果的な質問で、正しい知識を引き出せばいい。筋トレの本やYouTubeチャンネルには、断片的なヒントがたくさん転がっていて、徐々にではあるけれど、自分なりのトレーニング方法が見えてきた。

・高負荷で少ない回数を数セット。
・マシンを使用した後は休息を取る。
・有酸素運動(ランニング)ではなく無酸素運動が効果的。
・あれこれマシンを使わなくていい。

ジム内に手を出していないエリアがあった。ダンベルやスミスマシンが置かれているエリアだ。そこの人たちは、ほかの人たちと違っていた。ランニングマシンエリアには若い女性もいるが、そこにはいない。いるのはマッチョたちだ!(興味がなかったので気がつかなかった)。彼らは寡黙にダンベルやスミスマシンでベンチプレスをしている。このエリアは全く僕と関係のない世界だと思っていたのだけど、もしかすると、これじゃないのか。僕がやるのは「こっち」なんじゃないか。

しかし、ダンベルもスミスマシンも使い方が全くわからなかったが、ダンベルならなんとかなりそうだ。「まず、ダンベルをやってみるか」。たまたま通りかかった小太りのおじさんスタッフに「これってどうやるんですかね」と訊ねた。おじさんは、じろっと僕を見て言った。

「あなたの筋肉の目的はなんですか?」
「……筋肉の目的ですか?」

僕はおじさんをみた。ミズノのウェアの下の大胸筋がパンパンだった、おじさんは小太りなんかじゃない、マッッチョだったのだ。「筋肉の目的」。その後、僕はその問いかけに応えるべく、筋トレに励むようになる。だけど、その時の僕はなにもわかっていない。ただ、マッチョのおじさんに対して、軽々に質問したことを後悔していた。ムッとしたに違いない。しかし、おじさんの表情は明るい。
「ちょっと座りますか。筋肉の話をしましょう」。おじさんは、そう静かに言った。