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夜になって、ユーレイ一帯を嵐が襲った。標高3000mの土砂降りに、気温が一気に下がる。この雨で否応無く、選手たちのペースは落ちるだろう。86km地点のウィーホーケンASに雨の中、先頭でやって来たのはオレリアン。時刻は21:27。その15分後にブレットが続く。アイロントンで志村と走ったマイクは22:38に、そして4番手にはケン・ゼマックが浮上し、マイクからわずか3分差まで迫る。単独5番手となった志村は23:00に到着。冷たい雨の中、どれほど憔悴しているかと心配になったが、志村の様子を見て別の意味で心配になった。

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先ほどまでの呪詛はどこへやら。とにかくハイテンションで、多弁な志村がそこにいた。「命のキケン!命のキケンを感じた!」目はかっと見開かれ、言葉は悪いが表情は“いっちゃっている”人のそれだ。スタート前よりも元気なのは異様さすら感じさせるが、志村の手記にその顛末が事細かに記されている。

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セクション8 アイロントンAS→リッチモンドパス→リッチモンドAS(6マイル/9.6km)
セクション9 リッチモンドAS→ウィーホーケンAS(4.2マイル/6.8km)

“ここから夜間パートに入っていくことを考え、長袖に着替え、ヘッドライトを装着した。このパートでまた一人、ケンにパスされる。ケンは、とても陽気なおじさん。ただ、このハードなレースの中で、あれほどの陽気さを保てるということに、かなりの経験値を備えたランナーだということは想像できた。このパートで、登り始めから天候が大きく崩れ出す。横殴りの雨、雷、気温の急降下、全てが予想外の展開だった。アイロントンのループから明らかに身体の疲れを感じていた私にとって、一番過酷な時間だった。
稜線には残雪。夜間になり、横殴りの雨によってコースマーキングはほとんど見えなくなった。落雷の恐れがあったので、ストックも使えない。手足が氷のように冷たくなってきた。体の芯から冷え切っている。低体温症の兆候だ。命の危険すら感じた。そこで、ザックを下ろし、中間着を着込み、グローブは外し、中間着を入れていた防水サックを手にはめて走った。「止まったらだめだ」そう考えていた時、不思議な感覚に襲われた。今まで痛かったはずの手足の痛みが消え、足元が悪くても、不思議と走ることができた。自分の中の生命維持装置のスイッチが入ったような、無の感覚に近かったのかもしれない。
しかも、この区間、補給は全くしなかった。というか補給のことは頭から消えていた。途中、渡渉する場所があるのだが、行きは膝ぐらいまでの水量だったものが顎下まで一気に増水していた。躊躇している暇はなかった。川にとびこみ、流されながらも川を渡りきった。登山道も川によって削られ、来た道とは思えない様相だった。ただただ、前を目指した。自分の中に眠っていた何かが自分を突き動かしているようだった”

(志村裕貴の手記より)

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このセクションは、一夜にして35名をリタイヤに追い込んだ。寒さと雷が、選手の身体と心を刈り取ってしまったのだ。だがそんな極限の状況下で経験した、見たことのない自分の発見。それは後半に失速したUTMFでも、ルートをミスした信越五岳でも見られなかったものだ。〈OURAY100〉の中で、志村は新しい自分を知る。

そしてここからの道のりが、志村をランナーとしてさらに成長させることになる。ペーサーのアンソニーと一緒に走る、ここからの道のりが。

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アンソニーとはこの1週間、共に走り絆を深めてきた志村。その走力も去ることながら、常に楽しむマインドに志村は刺激を受けていた。この時間までサポート隊と一緒に動くアンソニーが各ASで自主的に選手のサポートを行う姿を見てきた私たちにとっても、それは同じだ。嵐の夜、未知の自己との邂逅、ユーレイの山中……なぜかこの状況で、志村とアンソニーが共に走ることは運命だったのだという気にさせられる。

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セクション10 ウィーホーケンAS→アルパインマインオーバールック→ウィーホーケンAS(5.1マイル/8.2km)
“エイドに着いた時、「裕貴、何か変だぞ」と伝えられる。瞳孔が開き、周りから見ても異常な状態だったようだ。ここからペーサーのアンソニーがついた。夜間のパートで、彼が近くにいてくれることは何よりも心強かった。ただ、先ほどのパートで大きな負荷が体にかかっていたことは事実だ。「You can do it.You are strong.」彼は、私のネガティブな思考の一切を排除してくれていた。苦しい。そう思う自分の隣にアンソニーがいてくれた。その大きな安心感が一歩一歩進む力に変わっていった”
(志村裕貴の手記より)

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夜が深くなっていく。深夜2時、レースがスタートして18時間。単独5番手を走る志村を追いかけていると、もはやほとんど他選手や、そのサポーターとも出くわさない。しんと静まり返ったクリスタルレイクASのボランティア、バード・パーネルはいつ選手が来るかと待ち受けていた。彼は、〈OURAY100〉の第1回大会を走ったことがある。今よりマイルドなコースを、18名が走ったのが全ての始まりだという。このレースに魅せられたバードは、2年目からはボランティアとして、〈OURAY100〉を支えている。

「このレースを作っている仲間は、みんないい人たちばかりだよ。コロラドやユタでは、困っている人を助ける文化がある。仮にレースリーダーでも、サポートがいないのがわかったらその場の人たちが助けてあげるんだ。そういうところが、トレイルランニングの好きなところだね」

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ここで上位戦線に異常が起こる。常に15分ほどの差で2番手をキープしていたブレットが、クリスタルレイクASに着くなり動けなくなってしまう。低体温症だ。バークレーマラソンを2度も走りきった者さえも対応できない環境の変化。1時間以上ASに停滞しているうちに、マイクとケンが追い抜いていきそれぞれ2位と3位に順位を上げた。なんとかブレットがスタートしたその直後に志村がやってきた。

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セクション11 ウィーホーケンAS→ヘイデンパス→クリスタルレイクAS(7.1マイル/11.4km)
“この区間の登りは、かなりこたえた。前のランナーが一切見えず、永遠と続く登り。「いつまで登るんだろう」そんな感覚だった。ただ、稜線へと出た時に町の明かりが見えた。「あそこに帰るんだよ。だから、今はがんばろう。」終わりがみえなかったはずのゴールが想像できた時、少し体が軽くなったようだった。最後は、気持ちのいい下りが待っていた。今まで、気持ちよく下れたパートはなかった。ここは、「ヒュー」と大きな声を上げながら快調に飛ばした。後のことを考えれば、ここは足を温存していくという考えもあると思う。でも、「目の前のトレイルに自分を委ねよう」と心から思っていたのだ。そう考えることが今の自分にとって一番必要なことのように思えた。下りの途中で前のランナー達とすれ違う。ブレットが一番後方にいた。苦しそうだった。「長い間、エイドにいてしまった」と。今までの彼とは明らかに違っていた。あんなに強いランナーも苦しんでいる。戦っている。自分もこれからだろ。自分を鼓舞した”
(志村裕貴の手記より)

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クリスタルレイクからは、来た道を逆に戻る。先ほど越えて来たヘイデンパスを、逆側から改めて登ることになる。その山頂に至ろうかというときに、夜明けがやってきた。

そしてスタート地点のフェーリンパークへ戻って来た。ここまでで120km、獲得標高8600mを走破したことになる。ここからはユーレイの北側の山を何度も上り下りしてフェーリンパークを行き来する。スタート地点にして、最終ゴール地点でもあるフェーリンパークにやって来たことで、少し選手たちも安堵しているのがわかる。

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先頭は依然としてオレリアン。ブレットの脱落後は完全にひとり抜け出した格好だ。その差は120km地点で2位のマイクに1時間半。3位ケンはマイクと10分差で競っている。この両名はここにきてエイドステーションで笑顔を見せる余裕がある。50歳のケンは常にからからとスマイルで走り、その強いたたずまいに、見ているこちらにまで力をくれるようだ。

苦しんだブレットも持ち直し、マイクから30分遅れの4位で120km地点。だがやはりエイドステーションで見る限り、笑顔はない。志村はさらに1時間半遅れの5位でフェーリンパークへとやってきた。昨日の朝8:00にスタートして丸一日、24時間をかけて再び戻ってきたことになる。平坦基調の「走れる」100マイルならとっくにゴールしている時間だが、志村にはまだ41kmの距離が残されている。

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セクション12 クリスタルレイクAS→ヘイデンパス→フェーリンパーク(8.6マイル/13.8km)
“エイドを出て、稜線へと登っていく。ここで、思ってもみないプレゼントがあった。それは、朝焼けに輝くユーレイの山々だった。呼吸することを忘れるくらい、一瞬世界が止まったかと思うくらいの絶景が広がっていた。レースの中で感じた自然の過酷さと美しさ。自然の雄大さと自分の小ささ。自分がここにいることが夢のようだった”
(志村裕貴の手記より)

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一晩中人のいない山中を走った後に日の出を見ると、どんな思いがするのだろう。100マイラーの走りを間近に見るたびに、それを知りたい気持ちに駆られる。だがそれは、100マイラーの特権。闇や嵐に歩みを止めぬ勇気がなければ至れない境地。

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太陽が出たということは、再び気温が上がることを意味する。ついさっきまで、吐く息が白かったのにもう今では半袖だ。標高の高さに加え、この気温の激しい変化が選手たちを苦しめる。走行中に嘔吐したという志村も、いよいよ固形物がノドを通らなくなって来た。肉体的な限界がいよいよ近い。だが極限の状態は、新しい自己を見出す機会でもあった。

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セクション13 フェーリンパーク→ツインピークス→シルバーシールドAS(6.3マイル/10.1km)
“やっとスタート地点であるフェーリンパークに戻ってきた。多くの人が、温かく迎え入れてくれた。ツインピークスへの登りは、想像していたものと明らかに違っていた。急登を登ると岩場が現れ、さらに上へ上へと登っていく、スクランブリングのような状況だったが、それを楽しんでいる自分がいた。2人で少年の頃のように山というフィールドで遊んでいた”
(志村裕貴の手記より)

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スタートして丸24時間が過ぎ、〈OURAY100〉を走る誰もが限界付近にいた。だが、フィニッシュまで30kmを残して先頭のオレリアンが止まってしまうとは予想だにしなかった。レース中盤、15分後ろでずっと迫っていたブレットのプレッシャーを感じ、各ASでほとんど補給を取らずに行ったことがここに来て響いたという。オレリアンをそこまで追い込んだブレットにしても、低体温症ですでに前線を退いている。自然とも、人とも戦わなくてはならない100マイルの過酷さよ。

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この間に志村は4番手へとポジションを上げた。ここまで120km以上を走ってきて、上位陣に何が起こるかはわからない。表彰台すらも射程圏内に入ってこようかという状況だが、志村は再び見えない敵と戦っていた。暑さという、見えないがどこまでもランナーを苦しめる難敵と。

一度フェーリンパークに戻ってきからの終盤パートは、ベースの標高が2,400mまで落ちる。それまで3,000m級の高地の気温に慣れた体に、照りつける太陽はとりわけ体力を奪う。強い日差しに、乾いた路面。一帯は鉱山であったためか所々岩肌がむき出しになっており、樹林帯が長く続かない。それは登りも下りも、山の中にいながら直射日光を浴びることを意味する。くらくらするような日差しの下、汗だくになった志村がやってきた。こんな状況下では、『正しいウェア選び』なんてものがナンセンスに思えてくる。

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セクション14 シルバーシールドAS→フェーリンパーク(4マイル/6.4km)
“シルバーシールドASでは、みんなが待っていてくれた。やはり、仲間の顔をみると元気になる。次のエイドで仲間が待っていてくれる、そう思うと前へと進むことができる。ここからは、暑さとの戦いだった。うだるような暑さと乾燥が襲ってきた。とにかく水分を多く摂ることを心がけた。首にも氷の入ったバフを巻きつけた。ここは、そこまで標高が高くないため、暑さが途切れない。水分がみるみる失われていくのが感覚的にもよく分かった。ただ、ここを戻ることができれば、あと登りは2つ。ここは、我慢だ”
(志村裕貴の手記より)

フェーリンパークには、昨夜の嵐でリタイヤした選手たちが集まり始めた。彼らは、これからやってくる選手たちのペーサーを買って出るという。リタイヤしたから終わり、ではなく自分にできることは何か。彼らの〈OURAY100〉は一度終わったが、誰かのために走ることで、形は違えど走り続ける。クリスタルレイクのバードが言っていた、この地のトレランコミュニティにおける他者を助ける文化がここにもある。

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ペーサーの存在がどれほどまでにランナーの支えとなるか、最終盤を迎えながら志村は改めて知ることになる。暑さと冷たい雨が交互に襲ってくるような、そんなハードな環境だからこそなおさらに。そして、否応なく自分と向き合う長く孤独なトレイルでの時間を過ごした後だからこそなおさらに。

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セクション15 シルバーシールドAS→チーフ・ユーレイ・マイン→フェーリンパーク(6.7マイル/10.8km)
“ゴールが見えてきたこともあり、アンソニーがここからギアを上げていこうと促す。エイドを出た時は、お互い気持ちが入っていた。だが、同じような登りの繰り返しが精神的なダメージとなった。先を急ぎたい気持ちと先が見えない不安、両方が自分を焦らせた。自分の顔がゆがんでいくのが分かった。そんな自分を見てアンソニーは言った。「笑顔が幸せな気持ちを届けてくれる。今を楽しもう」こんな状況にあっても、今を楽しむ勇気を持つことを彼は教えてくれた”
(志村裕貴の手記より)

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残す登りはあとひとつ。ここまでの距離147km、獲得標高11,300mを走ってきた。最後のセクションは距離17km、獲得標高1460m。ブリッジ・オブ・ヘブンと名付けられた標高3740mの稜線までの登りだ。志村をこの稜線で待つために登っていると、3番手を走るブレットが、ペーサーとともに下ってくるのとすれ違う。このペーサーは、先ほどフェーリンパークに集まっていたリタイヤした〈OURAY100〉の参加者だ。

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それからしばらくして、アンソニーの声が山の下から聞こえてくる。「大丈夫だよ、いけるよ」「もうちょっとだ、がんばろう」と5歩進むたびに声がかかる。姿が見えた志村は、限界とせめぎ合っている。一歩一歩、ゆっくりと、しかし着実に足を前に出してこの最後の登りを行く。その速度は、時として歩くよりも遅い。言うことを聞かない身体を運んでいくのは、もはや精神力だけだ。

己の肉体と対話を続けた100マイルの果てに、最後は己の精神との戦いとなることを志村は経験的に知っている。絶対的な肉体的苦痛のさ中にあっても、精神は屈してはならない。その足取りは速くはないが、しかし力強い。肉体が限界を迎えてもなお、いや限界を迎えたからこそ、志村の精神の強さが際立つ。

〈OURAY100〉最後の山頂となるブリッジ・オブ・ヘブンまではあと少しだ。顔を上げると、眼下にはユーレイの山々のパノラマが広がっていた。

13もの山頂を越えて、こんなところまで、登ってきたのだ。今は気持ちだけが動かしているこの2本の足でここまでやってきたのだ。絶えざる一歩一歩が、ここまで彼を運んできたのだ。意味のない一歩なんて、この100マイルのうちに一度たりとも無いのだった。どんな感情がその時志村に去来したかは定かではない。だが最後の山頂を目前にもう一度立ち上がった志村の目には涙が浮かんでいた。

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2度目の夜が始まろうとしていたまさにその時、志村はフェーリンパークへと戻ってきた。暑さ、雷雨、景色、寒さ、辛さ、絆……この100マイルに見て感じたものすべてはこの瞬間へと帰着する。喜びとも、安堵ともつかぬ名状しがたい感情が、溢れ出していく。赤コーンが2つ置かれただけの簡素なフィニッシュラインが、だからこそ、志村とアンソニーの2人を際立たせる。

万感の思いで、志村は天を仰いだ。

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オーガナイザーのチャールズが言っていた通りだ。〈OURAY100〉に派手なゴールゲートは必要ない。このユーレイの峻厳な山々と、勇気を持って前に進んだランナーは、虚飾よりも温かな拍手と心からの敬意が出迎えるべきなのだ。

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セクション16 フェーリンパーク→ブリッジ・オブ・ヘブン→フェーリンパーク(10.6マイル/17km)
“最後の登りが始まった。150キロを過ぎてから1500mアップ、標高3800mまでの登り。コースプロフィールを見た時は、クレイジーだなと感じた。でも、今は全てを受け入れることができたような気がする。ブリッジ・オブ・ヘブンまで登り、見つけた看板にキスをした。「ありがとう」色んな気持ちがこみ上げてきた。そして、応援してくれた人達の顔が浮かんできた。しばらく山頂に座っていると、自分の中を風が突き抜けていくような爽やかさがあった。アンソニーは言った。「Let’s go on.」
最後の下りは何もかも忘れて、ただゴールだけを考えて走った。心から楽しいと思えた瞬間だった。ロードに出た。残り500m。長い。こんなにこのロード長かったっけ。ゴールに近づくと、沿道の人が大きな声で声援を送ってくれた。日本人とかアメリカ人とか人種とかいろんなものを抜きにして、頑張りを認めてくれる。「Hiroki」と名前を呼んでくれる人も少なくなかった。ゴールはたった2つのコーン。派手なゴールゲートは必要なかった。ゴールした瞬間、両手を高く上げ、空を仰いだ”

(志村裕貴の手記より)

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志村 裕貴

志村 裕貴

1986年山梨県生まれ。実家はブドウ農家。地元で開催された〈UTMF〉を目の当たりにしたことで山を走り始める。2018年〈HURT100〉7位、〈UTMF〉29位。2019年〈OURAY100〉4位。普段は小学校の先生として教壇に立つ。
Instagram: @sim46_aozora