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ツール・ド・フランスを頂点とする自転車ロードレース。今年の全日本選手権には、日本人として初めてツール・ド・フランスを完走した2人のトップ選手が来日し参戦した。その1名、フミこと別府史之は、特別な想いでこのレースに臨んでいた。

スタート1分前の富士スピードウェイ。最前列に並んだフミの、クリアレンズのサングラスの奥にこみ上げてくるものがあった。プロ15年目。スタートラインでレース開始を待つこの瞬間を、数えきれないほど過ごしてきた。だが、こんな感情を抱えて出走するのは、初めてのことだった。

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フミとユキヤ、日本を代表するロードレーサー2人

2019年のサイクリングロードレース全日本選手権は、富士スピードウェイで開催された。翌年の東京五輪の会場であり、またその選考に関わる大一番ということもあり、大きな注目を集めたのだが、大会最終日の男子エリートレースにおいて衆目を集めたのは2人のトップライダー。新城幸也(バーレーン・メリダ)と別府史之(トレック・セガフレード)だ。

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2人は日本人として唯一、世界最高峰のワールドツアーチームに所属する。本場ヨーロッパを主戦場とする彼らが日本を走る機会は、年に数回あるかないか。そしてこの2人が全日本選手権で顔を揃えるのは、2011年以来のこと。同時代に日本が生んだ傑出した2名の直接対決に掛かる注目は大きい。

フミはツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャの三大ツール、そしてモニュメントと呼ばれる最も格式高い5つのワンデイレースの全てで日本人として初めて完走を果たした。現役のプロ選手を見渡しても、この偉業を成し遂げた選手はわずか8人しかいない。どれだけタフに、長きにわたり本場ヨーロッパで走ってきたかがわかる。新城はパンチ力のあるアタックを武器に、時に世界屈指の選手をも圧倒する走りでヨーロッパで高く評価されている。

であるからして、この2人が参加する全日本で勝つことの意味は、他の日本人選手にとって小さくない。2006年に別府が23歳で初優勝し、新城がその翌年22歳で続いてから今日まで、2人を世界的なレベルで凌駕した日本人選手は現れていない。この全日本で勝つことは、別府・新城時代へ引導を渡し、今後の日本のロードレースを背負う覚悟の表明、世代を担う宣言となる。2人がツール・ド・フランスに揃って初出場し、揃って日本人として初めて完走した2009年は、日本の自転車競技史における輝かしい達成だったが、それから10年の月日が経っている。

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「フミ」こと別府史之は、全てのトップアスリートがそうであるように、プライドが高い。自身が日本のロードレース界においてどんな存在であるかを自覚しているし、ワールドツアーで長年戦い続けていることに対する自負もある。とはいえ、プライドが高いことは性格の難しさを意味しない。レース前日のフミはいたって穏やかに、時折冗談を交えながら、こちらの質問に応えてくれる。いま思えば、なぜこの時こんなにも穏やかでいられたのか。それがフミのプライドだったのかもしれない。

「2年前に勝てなかったことが頭に残っていて。もう一度日本のチャンピオンになってヨーロッパで走りたいですね。最後のトライになると思いますが。自分も今年で36歳になって、いつまでもできるわけじゃないというのは春にケガをした時に思いました」

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フミは今年の3月、石畳を走るフランスのレースで落車に巻き込まれ、鎖骨を骨折した。15年のプロ生活の中で、初めてのことだった。5月末にはレースに復帰したが、これまで以上に自らの身体をみつめる内省的な時間が増えた。

所属するトレック・セガフレードにはフミ以外の日本人選手がいないため全日本選手権では単独での参加となる。同チームの選手が多いほうが有利になるロードレースにあって、チームメイトがいない状況は困難を極める。とはいえ、フミも新城も、この状況を打破してお互い2度ずつ全日本選手権を勝ち取ってきた。全日本の難しさも、勝ち方も知っている。

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「トレック・ジャパンのサポートがあるので、単騎だけれど、チームで戦う気持ちです。ファンの方々の応援も、心強い。個人タイムトライアルの敗因は攻めきることができなかったこと。だから、ロードレースでは攻めるつもり。ロードに気持ちを入れてきたので、リスクを負ってでも攻めたい。前へ前へという走りをします」

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ロードレースの3日前に行われた個人タイムトライアルでは3位となったフミ。この種目を過去に3度制している選手にとっては、3位といっても及第点に留まる。ぽつりと口にした最後のトライ、という言葉。この時のフミの表情には、『2位以下は敗北と同じ』というロードレースの鉄則が覚悟として滲んでいた。この全日本選手権は、『勝たなければいけないレース』なのだ。

レース前夜は、トレック・ジャパンのサポートチームのミーティングが行われた。タイヤの空気圧といったバイクのセッティングから、サポートスタッフの動き方、ファン対応のタイミングなどが細かく決定された。普段フランスを拠点とし、日本で走る機会が極端に少ないフミは、この大一番であってもファンと交流することを望む。

「ファンのために時間を作れたほうが、僕としては嬉しいです。レースの結果が良くても悪くても」

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そして、サポートチームに対しても、全力を誓う。

「サポートしてくれるみんなのために、120%で、全力で走ります。本気で戦う覚悟はできています」

そう語ってミーティングルームを後にしたフミ。決戦前夜、ホテルのベッドでどう眠りに落ちるのだろうと想像した。昂り、憔悴、疑心、確信……どんな思いがその胸に去来するのであろうか。知る由もないが、レースはすでに始まっていることだけは察したのだった。

波乱が予想される雨と強風のサーキットコース

レース当日の朝は、予報通り雨、そして強風に見舞われた。前日のレースが雨により短縮になったことで、エリート男子もひととき開催が危ぶまれたが、1周10.8kmのサーキットを21周する227kmのコースは変わらなかった。雨に濡れたモータースポーツ用のサーキットは、スリッピーさを増し、国内では珍しい200km超えのコースと相まって始まる前からサバイバルレースとなることは明白だった。

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スタート1分前、瞳からこぼれ落ちる涙をこらえきれずフミはサングラスを外し目を拭った。内に秘めたこの全日本にかける思いが、溢れ出した。間も無くスタートの号砲が切られた。

レースが始まって早々に集団のペースを上げていったのはフミだった。テクニカルなコーナーに集団が縦に伸びたが、フミのペースアップで早くも集団後方は中切れを起こし、脱落者を生み出していった。意思を感じさせる動きだが、チームメイトのいない単独参戦の選手が行う戦略ではない。モニターでレースを見つめる実兄で自転車ジャーナリストの別府始も、「動きすぎかもしれない」と早すぎるアクションに息を飲む。

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勝ちを狙う選手がレース序盤で力を使うことは、ロードレースのセオリーではない。自らの脚力に絶対の自信があるか、あるいは序盤だけ目立てれば良いという選手のすることだ。実際、フミは絶対の自信を持っていたのかもしれないし、どこか気負いがあったのかもしれない。ただ一つ確かなことは、1周目からサバイバルな展開をフミが選んだことだ。152名がスタートした集団はみるみる人数を減らしていく。

集団内に味方はいない

雨、風、滑る路面に多発する落車。見るに痛ましい光景だが、集団の前方ではプライドと意地がぶつかり合うレースが繰り広げられていた。数的優位をレースに持ち込みたい宇都宮ブリッツェンやブリヂストンサイクリング、マトリックス・パワータグといった国内チームが波状的に攻撃を仕掛ける。フミや新城は、その対応を誰か任せにはできない。この集団の中の誰もがこの2名の脱落を望んでいる。味方はいない。

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各チームの選手が飛び出しては集団に吸収される。4周目には有力選手を含む9名の逃げが決まり、フミは追走を余儀なくされる。追いついたと思えばカウンターアタックでまた違う選手が飛び出していく。この繰り返しに対応しながら周回数をこなす。徐々に、無意識のうちに、足を削られていく。

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後手に回ればやられるという状況。しかしフミも新城も幾たびもこうした状況を打開してきた。適切なタイミングで、攻撃あるのみだ。18周目、集団のペースを上げたフミの動きに乗じ飛び出したのは新城だった。小林海(ジョッティ・ヴィクトリアパーマー)と小石祐馬(チームUKYO)という力のある若手選手とともに、3名での逃げを成功させる。

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優勝を狙える3名の逃げを、集団は追わねばならない。しかし200km近く走ってきた集団にはまだ走れる選手と限界近い選手が混在する状況。それぞれのチームと選手の思惑が絡み、集団は後手を踏む。置いていかれたフミとしてはこの逃げを行かせてはならない。全力でその差を潰しにかかり、危険なこの3名の逃げを吸収する。しかし、同じくワールドツアーで走る新城を全開で追ったことが、フミの勝機を失わせた。

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19周回目に入るところで3名を捉えた集団の中で、フミにもう力は残っていなかった。波状的に集団から選手が飛び出していく中、再び新城が新たな3名の先頭グループを形成する。そしてこれが、この日の「勝ち逃げ」となった。

レースに負けても、フィニッシュまで走り続ける理由

この飛び出しを追うことができなかったフミのレースは、ここで終わった。終わった、というのは象徴的な表現が過ぎるかもしれない。実際のところ、フミは走り続けた。しかし着を狙う動きから取り残された選手が一人で走るには残り2周、およそ20kmは長い距離だ。それでも淡々と、ゴールを目指した。

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写真/小俣雄風太

勝ち逃げとなった3名を、新城が闘志あふれる走りで積極的に牽引したが、最後のゴールスプリントで29歳の入部正太朗(シマノレーシング)が先着。第88回目の全日本選手権を制した。スプリントの瞬間、ボルテージが最高潮に達した富士スピードウェイのホームストレートだったが、勝者を選び出した後は霧と静寂に包まれていった。

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ロードレースは残酷な生き物だとつくづく感じさせられる。自分が活性化させた集団に、為す術もなく置き去りにされてしまう。集団には百名を超える選手それぞれの思惑が交錯し、絡み合い、コントロールすることなど到底できないように思われる。その中で、絶対的に正しいのは、ただ一人、勝者の、勝ちをもぎとった走りだけだ。

フミがここに姿を見せたのは、入部から遅れること12分36秒後のこと。この日のレースを通して鬼気迫る走りを見せたフミへ、スタンドの観客は暖かい拍手でフィニッシュを讃える。完走した選手の中で最下位となる25位。通常ならこの位置でゴールすることに意味はない。だがこの日のフミは、走るのを止めるわけにはいかなかった。

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フィニッシュラインでバイクを降りたフミは、観客のいるスタンドに向かって一礼した。本来ここは、拳を高々と突き上げる場所であって頭を下げる場所ではないが、最後まで声援を送ってくれたファンへの謝意と、酸いも甘いも味わってきた全日本選手権への敬意を示した。

そしてそれ以上に、このレースを無事に終えたことを、礼をもって空に告げたのだった。長く闘病を続けていた母の容態が思わしくなくなったのは全日本選手権ロードレースの2日前。静岡の会場を抜け出して、実家のある神奈川に母を見舞った。フミはプロのレーサーとして、この全日本を走ることを決意し、再び静岡へ戻った。その夜、母は息を引き取った。

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新たな王者がアナウンスされる表彰式の歓声を背中に聞きながら、フミはうなだれた。名状しがたい感情とともにスタートを切ったこの日、敗北を咀嚼することもまた、難しい。だがこれがロードレースであることも、フミはよく知っている。勝者の華々しさ、敗者の苦衷。そのコントラスト。

全日本選手権は、結果が全てのレースだから、この日、入部以外の151人は敗者だったことになる。だが、敗北した151人の選手全員に、それぞれ期すものがあり、それぞれに背負った戦いがある。このレースに懸けるそれぞれの選手の想いは、近くで見ている者にしかすくい上げることができない。だがそんな言語化されない感情の総体が、ロードレースをかくも残酷で、かくも美しいスポーツにしているのかもしれない。

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「全日本はいつも張り切りすぎてしまう」とバツが悪そうにはにかんだフミが、ファンのサインと写真に応じている横顔を見ながら、そんなことを思ったのだった。

別府史之

別府史之

1983年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。UCIワールドツアーチーム「トレック・セガフレード」所属。2005年ディスカバリーチャンネルでプロデビュー。以来、今日に至るまで世界トップカテゴリーのワールドツアーレースを転戦する数少ない日本人の一人。2009年、新城幸也とともに日本人で初めてツール・ド・フランスを完走。その後、三大ツール(グランツール)および五大クラシック(モニュメント)のすべてで完走。これは世界の現役選手で8人しか達成していない偉業である。全日本選手権では個人タイムトライアルを2006、2011、2014年に、ロードレースを2006、2011年にそれぞれ制している。fumy.jp(公式サイト)Twitter Instagram Facebook