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パリ〜ブレスト〜パリ前日のスタート地点ランブイエの町には、世界中からサイクリストが集まっていた。誰もが翌日からの大冒険に期待と不安を抱いている。

「レースという言葉は使っちゃダメだよ。レースには競争と順位があって、そこにはパフォーマンスの優劣がある。パリ〜ブレスト〜パリはレースじゃない。個人的な冒険なんだ

PBPの前日、会場で自転車史家のジャック・スレさんにそうたしなめられた。うっかり、PBPのことを“course”(クルス、仏語でレースの意)と言ってしまったのだ。

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スレさんは、自転車関連の書籍を多数出版しており、その範囲はフランスの自転車界をすべて網羅している。自身は1966年(!)にPBPを走っており、ずっとこの大会を追いかけているという。近著はPBPの歴史をまとめた一冊で、1891年の第1回から前回大会2015年までカバーする内容になっている。そこには三船の姿も、写真入りで紹介されていた。

「彼はすごく強いサイクリストだね。そしてジェントルだ。彼は今50歳かい? PBPを走るには一番いい年齢だよ」 この本には、毎回の先頭での展開がロードレースのように記されているし、また巻末には50時間切りを達成した人名のリストもある(もちろん三船の名前も入っている)。レースではないと言いつつも、1200kmを速く駆け抜けることへの関心は、かつてあったプロレースの時代から続いているのだ。

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雨予報が出ていたスタート地点のランブイエ城。しかし16時のスタートを前に、雨は上がり太陽が顔を出した。世界各地から6674人が出場したとあって、大勢のサイクリストが詰めかける。日本人参加者も400名規模と過去最大数を記録したという。次にここに戻ってくる時、彼らはみな1219kmの旅を終えたことになる。それぞれに、どんな旅が待ち受けるのか……。

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必要不可欠なサポーターの存在

スタートラインについた三船にとっても、この先の旅路はまだ見えない。16:15にスタートするB組で走る三船とそのほかのライダーにとって、まずは15分先行するA組のライダーたちに追いつくことが目標となる。4年前にA組でスタートした三船を翻弄した、B組のフランス人たちの戦略は今も記憶に残っている。各組は200名ほどのライダーで分けられているが、タイムを狙うA、B、C組の参加者のバイクは総じて軽装だ。大きなサドルバッグやパニアバッグなどは少数派。これは、個人サポートの存在を意味している。

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PBPでタイムを狙うには、サポート要員の重要性は大きい。ウェアや補給食、ライトといった荷物の受け渡しから心身のケアまで、孤独な1219kmの道のりで誰かが待っているということは、どんなに心強いことだろう。三船のサポートを担当するのは、Rapha Japanの矢野大介。過去二回、三船のチャレンジを支え発信し、PBPの認知度と三船の活動を多くの人に知らしめた功労者でもある。

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PBPは、パリ南部の町ランブイエをスタートし、一路西へ。ブルターニュ地方ブレストの町までおよそ600kmを走り、折り返してくるコースレイアウトになっている。チェックポイントは合計14箇所。ほとんどが行きと帰りの両方で立ち寄ることになる。スタートして最初のCPは217kmと距離があるが、その後はおおよそ70-90kmおきに設置される。

サポート隊は、コース上をクルマで走行することができない。コース上を走るランドヌール(=ブルベを走るサイクリスト)の姿を見られる機会はタイミング的に多くないが、110km地点のモルターニュ・オ・ペルシュの町で先回りに成功。この町は帰路にCPが設置されるとあって、町中の関心がPBPに向いているのがわかる。

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A組スタートのランドヌールたちが続々と街の小道を縫うように走り抜けて行く。本当に小さな、フランスのどこにでもあるような町だが、自転車への理解と愛情に満ちているのがわかる。交差点のパン屋さんでは、サイクリスト向けの補給食菓子が軒先で売られ、小さな子どもたちが大きな声援を送っている。

町から町へ、旅するランドヌール

ほどなくして、B組のランドヌールを中心とした集団がこの町へやってきた。前からこぼれてきたA組も入っていて、結構な大所帯といった集団。三船の姿もしっかりとそこにあった。しかしこの雰囲気、まるでツール・ド・フランスと変わらない。町と町を結ぶように走る集団。その町はお祭り騒ぎだ。我々は点でしかランドヌールを見ることはできないが、彼ら自身は町を訪れる度にこの声援を受けながらブレストを目指すのだろう。

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ヨーロッパは、境界のはっきりした地域だ。町とそれ以外が、いつまでも建物が続く日本と違い明確にある。この町はここまでだよ、と示す斜線入りの町名看板が、町の終わりに設置されている。隣町まで、ランドヌールは自身と周りのタイヤが鳴らすロードノイズだけを聞くことになる。騒と静のコントラスト。圧倒的に長い静の時間には、内省的になりそうだ。

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最初のCPヴィレーヌ・ラ・ジュエルは217km地点。16時過ぎにスタートしたA組が辿り着いたのは、陽の長いフランスの夏でもさすがにとっぷりと日が暮れた夜10時半過ぎ。こんな時間でも、大音量でMCが入り、町中から人が出張ってちょっとしたお祭りのようになっている。前のグループを追うB組が集団でやってきた。三船は到着証明のスタンプをもらいに走り、補給を受け取り、一瞬でここを後にした。あまりにもめまぐるしい。その形相は、完走を目指す者のものではなく、勝利を狙うアスリートのそれだった。

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早くも動き始めた先頭争い

だが、ゴールまで1000kmを残したこのCPでひとつ決定的な動きが生まれていた。この直前で小競り合いの起きたB組から3名がCPを一足速く飛び出しており、A組の追走を開始。三船はここで少し出遅れ、彼らA組を追う3名をさらに追走する形に。先頭にジョイントしようとするこの動きに乗ることができなかった三船は、ペースの上がらない集団に業を煮やし、500km地点手前で再度追走を開始。登りを利用して集団から飛び出した。

5番目のCPカレー・プルゲ(521km地点)前のこの登りは、4年前にビョルン・レンハルト(ドイツ)が単独で集団から飛び出し、そしてその後700kmを独走して勝利を決めたポイントだ。三船のこの攻撃に、デンマークのランドヌールが合流し2名での追走となる。だがこの動きを集団は容認せず、三船らを折り返し地点のブレストまでに吸収。中心的に立ち回っていたフランス人ランドヌールはこの動きを集団に対する裏切りと糾弾。一触即発状態に。

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こうした集団内での諍いには、三船も慣れたもの。なんといっても、ベルギーのサーキットで東洋人ひとり、自らの足だけで生き抜いてきた男だ。ブレストからはこのフランス人を含むB組の数名で追走を開始。その頃、先に飛び出していたB組の3名がA組の先頭グループに合流。15分差を埋めるのに、実に600km以上、20時間を要したことになる。4年前はB組がA組に追いつくのに一晩もかからなかったことを考えると、今年はまったく違う展開となっていた。

三船、決意の追走開始

693km地点、2回目のカレー・プルゲにはB組の3名を含む数名が先頭グループで到着。ここまで追走のペースアップを成功させた三船は、再びデンマーク人ランドヌールと2人で抜け出し、30分以上あった先頭との差を19分まで詰めることに成功。先頭から落ちてきたランドヌールを回収しつつ、なおも前を追う。700km近く走ってきても、相変わらずCPで小休止もなく飛び出して行く。

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三船の渾身の追走は続き、次のチェックポイント、ルデアック(783km地点)までその差を10分まで縮めることに成功する。先頭は先頭でふるい落としが始まり、生き残ったのは3名。A組スタートのベルギー人タックス、そして他の2名は200km過ぎの最初のCPで先行していったB組の2名、フランス人コーケンとスロベニア人のバロ。フタを開けてみれば、あの時に飛び出したB組の選手たちが一番の足を持っていたのだった。

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57歳のロベール・コーケン(フランス)は、2019年のPBPを先頭でフィニッシュすることになる。

そして三船は、この3名に続く全体の4番手まで順位を上げていた。しかし、この勝負のかかった局面で迎えたCPにサポート隊の姿はなかった。それは予期せぬ事態だった。瞬時の状況判断でサポート隊がいないことを悟ると、他選手のサポーターに補給を求めた。なりふり構ってはいられない状況であることは、他選手のサポーターもわかっている。その中には先ほど、一触即発になったフランス人選手の取り巻きもいたが、状況が状況だけにここは助け合うことになった。西欧の自転車ロードレースに見られる、助け合いの精神だ。

失意、しかしフィニッシュを目指す

だが、満足な補給がとれなかったことは間違いない。前を追って依然プッシュを続ける三船のハイペースに、協調していた他のランドヌールたちが脱落。先頭3名に対し、1名での追走を強いられる。全く休むことのできない高強度により、補給不足によるエネルギー切れが三船を襲った。

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そして2回目の夜がやってきた。丸一日以上をサドルの上で過ごして迎える夜は、フレッシュだった最初の夜とは意味合いが違う。したたかなブルターニュの雨も降り注ぐ。50時間以内でのフィニッシュを狙うランドヌールにとっては、睡魔と肉体的疲労が襲いかかる魔の時間帯。この暗闇の中で、エネルギーの枯渇した三船の身体と頭は正常に働かず、また独走だったことが災いし、ルートをミス。往復で20kmを余計に走ることになった。戻るために時速34km/hで独走したが、それで足が終わった。ここで実質、彼の先頭を狙うPBPは終わった。

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923km地点、フジェールのCPに先頭の3名が到着。時刻は0時40分。深夜のこの時間にも、近所の人々がランドヌールの到着を待っていた。3名のうち唯一のフランス人、コーケンがこのブルターニュ地方の出身、いわゆるブルトン人だとわかるとにわかに歓声が上がる。ブルターニュはフランスの中でも自転車競技の盛んな地域として知られている。CPの度にコーケンは人に囲まれる姿が印象的だったが、地元の有名サイクリストということであるらしい。3名の中でも最年長の57歳。スレさんが、「50歳はいい年齢だ」と言っていたことが思い返される。

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挑んで、敗れた。後にそう語った三船だが、それでもパリまで300km以上を走り続けることを選んだ。出し尽くしたその様子は、往路で見せた闘志あふれるファイターとしてのそれではなく、見るに痛々しいほどに憔悴していた。「もう力が入らない」、そう呟いた。

次のCPまで85kmあることを知ると、「まだ80kmも走るの?」と数々の長距離ライドを走ってきた三船からとは思えないような言葉が飛び出す。それでも太陽が顔を出し、パリまでの道のりは再び日に照らされていく。連綿と続くPBPの、その歴史の偉大さと敬意に動かされてか、三船は再び走り出す。

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もう一人、このPBPに名前を刻もうとする日本人がいた。三船よりも先に、最後のCPとなる1174km地点、ドルーに姿を現した落合祐介だ。疲労の色を滲ませながらも、飄々と、フィニッシュのパリ・ランブイエへと向かっていった。50時間切りの世界へ足を踏み入れる好走を見せ、結果として今大会日本人最速の48時間28分22秒でフィニッシュし、確かな足跡を残した。

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一時は三船と2人、先頭の3名の追走に打って出たデンマーク人ランドヌールも、だいぶ遅れてドルーへやってきた。だが一度座り込むと、しばらく頭を抱えたまま動かなくなった。追走の代償は大きい。それは三船だけのことではない。彼もまた、挑んで敗れたのだ。

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走りきって見えてきたもの、挑むべきもの

三船はPBPの1219kmを、49時間44分36秒で走り切った。4年前よりも、6時間以上遅れてのフィニッシュとなった。50時間を切ったのは意地だと本人は語るが、先頭が獲れなければタイムに意味はない、とも振り返る。

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その先頭はブルトン人のロベール・コーケンが44時間47分36秒でフィニッシュ。2番手には1分ほど遅れてスロベニア人のマルコ・バロが入った。彼らは三船と同じB組スタートで、217km地点、最初のCPヴィレーヌ・ラ・ジュエルで先行していった3名のうちの2名だ。スポーツにおいて「もし」を語ることに意味はないが、それでも、もしこの動きに三船が乗っていたら。

その思いは本人が一番強く持っている。そして手応えも。2〜3人、そして独走で走る時間が長かった今回のPBPで、中盤以降に先頭グループとの差を縮められたことは、地足では劣っていないことを意味する。「300kmとか、そんな距離を独走することなんて滅多にないからね。集団から抜け出して走るのは楽しかったよ。前回はどこの馬の骨かと思われていたけど、今回は違ったね」

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結果としては振るわなかったが、この1219kmを経て三船の中で、PBPに対する目標は更新された。「脚力は通用することがわかった。だから、次回は41時間台を目指したい。結果を求めて走るのは、次が最後になると思うから」

プロレースでなくなり、ブルベとなった1956年以降のPBPで、41時間台を出したランドヌールは未だいない。それはつまり、今は面影しかないプロレースの時代への挑戦となる。前回大会でドイツのレンハルトが出した42時間26分という記録を三船は「神の領域」と表現する。もし41時間台でフィニッシュできれば、神格化されつつあるフランス自転車競技の「古き良き時代」ベル・エポックを現代に蘇らせることになる。

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“パリ〜ブレスト〜パリはレースじゃない、個人的な冒険なんだ” その言葉の意味が、すでに4年後を見ているこの男に重なっていく。

「今日はもう乗りたくない。でも明日は、どこに乗りに行こうかな?」

三船は生粋の、自転車乗りだ。

前編はこちら

三船雅彦

三船雅彦

1969年1月8日生まれ。京都府出身。ツール・ド・フランスに憧れ、高校卒業後ロードレースの本場オランダへ単身渡る。1994年、日本人としては数少ないヨーロッパでのプロ選手となり、97年にはベルギーの名門チームトニステティナに移籍。1999年、日本人で初めて『クラシックの王様』と称されるツール・デ・フランドルに出場を果たす。2002年まで欧州で活動し、プロアマ通算1000レース以上を経験。入賞回数は200レースにのぼる。国内でのレース活動を経て、2008年に現役を引退してからは長距離ライドのブルベに積極的に参加し、日本全国、世界のブルベを走る。パリ〜ブレスト〜パリは2011年(53時間16分)、2015年(43時間23分)、2019年(49時間44分)の3回を完走している。2019年シクロクロス全日本チーム代表監督。