2019.09.03 - 22:09

パリ〜ブレスト〜パリ 最速の1200kmを夢見て 三船雅彦 <前編>

(写真と文 小俣雄風太)

時と共に、変わらないものなんて無い。ヨーロッパにいると、過去から連綿と続くものが多すぎて、歴史が今も変わらずそこにあるように思えてくる。だが、伝統と呼ばれるものは、常に時代に合わせ変容し、今日まで命脈を保ってきたものの別称に他ならない。万物は流転する、とはこの世界の西側ですでに紀元前から言われてきたことだ。

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1891年に初開催された自転車ロードレース「パリ〜ブレスト〜パリ」(PBP)は、2019年の今日まで続く伝統のイベントだ。その名の通り、フランスの首都パリからブルターニュ地方の西の果てブレストまで行き、再びパリへと戻ってくる、実に1200kmを走るという現実離れしたレースとして開始された。

1903年に創始されたツール・ド・フランスが、フランス一周5000kmを走ると言ってもそれは一ヶ月をかけてのことで、わずか2日足らずで1200kmを走るPBPの特殊さは当時から際立つものだった。自転車レースが、命がけの冒険と同義だった時代の話。

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時代が下がるにつれて、1日の走行距離も、3週間の総走行距離も短くなっていったツールと違い、PBPは今も、1200kmを走る。とはいえ、プロのレースとして開催されたのは1951年までで、それ以降は自転車愛好家が制限時間内の完走を目指して走る「ブルベ」*の一大イベントとして開催されている。

ブルベ*……フランス語で「認定」を意味するロングサイクリングライド。世界各地で認定団体があり、100km、200km、400km、600kmと種々の距離のライドを制限時間内に完走することで認定される。認定を重ねることで、さらに長距離や格の高いイベントに参加することができ、愛好家を惹きつけている。日本は世界的にブルベが盛んな国でもある。

今日、PBPは4年に一度開催されている。それが故に、世界中のブルベを走るライダーにとって、PBPに参加すること、そして完走することはひとつの夢であり、ひとつの達成だと目されている。1200kmという距離を制限時間(90時間)で走り切るのは、言うまでもなくそうたやすいことでは無い。それにしても、この国が生んだオリンピックとサッカー・ワールドカップが共に4年に一度の開催ということを考えると、PBPの特別視もさもありなん、である。

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異端にして正統なランドヌール、三船雅彦

このPBPに人生を懸けているサイクリストがいる。かつてヨーロッパで14シーズンに渡り、選手として活動した三船雅彦、50歳。そのうちプロとして9シーズンを過ごしたが、ベルギー・オランダという自転車文化の最も濃密な地域でこれほど長くプロ活動をした日本人は今も昔も存在しない。今日と異なりグローバル化以前の自転車競技の世界で、全くの他者である日本人がベルギー自転車ロードレースの頂点(それはつまり、全ての自転車ロードレースの頂点といってもいい)であるツール・デ・フランドルにベルギーチームの一員として出場したという事実は、日本の自転車史に残る出来事だった。

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39歳で引退した三船は、自転車に乗ることを辞めなかった。いやむしろ、ツール・ド・フランスに憧れて高校卒業後に渡欧した頃と変わらぬ自転車への情熱を内に灯し続けていた。そんな彼が競技ではない長距離ライドであるブルベに引き寄せられたのは少し意外に思える。

引退した三船にとって自転車は、人との競争ではなく、自らの限界に挑むという意味合いが濃くなっていた。ブルベは参加者全てが、持てる自分の体力や技術を使って完走を目指す。三船もまた、自らの持てる力をこの長距離ライドへと捧げ、いくつものブルベを完走してきた。

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もともとブルベは競技志向から離れたロードライドイベントである。その世界に、元プロ選手がやってきたこと、そしてその速さや方法論は、少なからず従来の愛好家に衝撃を与えた。長年競技者として生きてきた三船の登場によって、日本のブルベカルチャーにおいて「速さ」という価値観に光が当てられた。一方でブルベという、速さを絶対視するレースから遠く離れた聖域が競争の現場になると危惧する声も上がった。

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だが、元プロの三船が、引退後も尋常ではない距離を走り続け、日本各地のブルベを完走し、その様子を発信したことで、多くの人がブルベを知るきっかけになったのも事実だ。その最たるものが、2011年、三船の最初のパリ〜ブレスト〜パリ挑戦だ。

PBPの先頭を見た初めての日本人

ブルベを突き詰めていくとPBPに至る。三船がこの4年に一度のブルべの祭典に挑んだのは自然な流れだったが、そこで経験したものは他のブルベとは全く異質のものだった。先頭付近は、完全にレースをしている。それも、1200km、45時間という時空でだ。

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PBPの先頭には、1951年で潰えたレースとしての側面が今も息づいている。集団が形成され、国ごとにアシスト選手が展開を作り、コントロールしにかかる。スタンプをもらうチェックポイントではバイクを降りてのランニングは必須、水や補給食もオフィシャルから提供されるものを取っている隙に置いていかれる。先頭集団で走るライダーには同じく1200kmを走るサポート隊がいて、彼に補給食の受け渡しからバイクのメンテナンスまでフルサービスをこなして送り出す。走行中はレースであり、チェックポイントも安息の地ではない。

あまりのハイペースとチェックポイントでの戦略に翻弄され、三船の初めてのPBPは集団についていけず53時間16分でのフィニッシュとなった。それも歴代の日本人で最速の記録だったが、三船の中にはこのPBPの先頭の景色を見たいという欲求が芽生えた。ヨーロッパで馴染んだレースの感覚。元プロとしての血が騒いだ。

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それから4年後、2回目のPBPはサポート体制も得て、終始先頭集団で展開。最終的に2位集団となるグループでのフィニッシュを果たした。先頭は500km地点で、残り700kmの独走を決してひとり飛び出したビョルン・レンハルト(ドイツ)がそのまま最後まで走り切り、42時間26分という、ブルベとなってからの最速タイムを記録する圧巻の走りを見せた。PBPの歴史に名を刻む走りを、三船は間近に体感した。

この時三船は16時出発のA組で、この2位集団には16時15分発のB組の選手も複数含まれていたため、厳密には三船は9位のタイムだったことになる。フィニッシュタイムは、43時間23分。いずれにせよPBPの先頭で展開する、という目標は果たしたが、次なる目標が三船の中に芽生える。それは、このPBPを先頭でフィニッシュすることだ。

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そして4年が経った2019年、三船はまたフランスの地へと降り立った。1200kmを先頭で走り切るために。

PBPの前日、三船はこう口にした。

「重いよ。スタート前はPBPに限らず、SR600*もそうだけど、わくわくするハイテンションと、鬱のような気の重さが交互にやってくる。それは、リスクも大きいから。普通では見られない景色を見ることができる代わりに、命を賭けるような、そんなリスクもある。どちらかというと、登山に近いと思う。スタート前はそれがすごく近くに感じられて、すごく怖い。時間は前に進んでいるのに、自分はまだ動けていないこの状態が」

SR600*……シューペル・ランドネ600の略称で、獲得標高10000m以上、距離600kmを走るブルベ。制限時間は50時間。山岳が厳しく、完走には相応の走力と経験が求められる。

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3度目のPBP、何が彼をそこまで惹きつけるのか。そこには、圧倒的な歴史の重みを持つこのイベントへのリスペクトがある。

「今は公式にはレースじゃない、ということになっている。でも、先頭はそうじゃない。むしろ先頭でやっていることは、プロレースの時代だった頃から何も変わってないんじゃないかな。4年前に、1人は先にフィニッシュしていたけれど、メイングループでゴール地点に戻ってきた時の感情が忘れられない……。自分より速くゴールした人間が1人でもいるなら、それより速くゴールしたいという気持ちが。正しい例えじゃないと思うけど、また戻ってきたいと思わされる麻薬、あるいは媚薬かもしれないが…そんな魅力がある」

4年越しの、三船の1219kmの挑戦が幕を開ける。

後編に続く>