「知識がパワーになる」をコンセプトに、馬喰町にあるカフェ『TRIPLE R』で開催しているアカデミーシリーズ『Knowledge is Power(K.I.P.)』。今回のゲストは、ランニングアドバイザーの市橋有里さん。マラソン代表選手として出場したシドニーオリンピックでの知られざる裏話から、アスリートフードマイスターから見たランナーと食に関する問題まで、たっぷりお話くださいました。

中野ジェームズ修一 × 市橋有里

――いきなりですが、市橋さんが走ったシドニーオリンピックで、すごいことが起きましたよね。市橋さん、高橋尚子さん、リディア・シモン(銀メダルを獲得)たちが形成していた集団がブリッジを走っていた時、高橋さんが最初のスパートをかけ、市橋さんはドリンクボトルを投げ捨てて追走するという。CMに入ってしまったので、中継では全カットですが、今でもYouTubeで見られます。

市橋 あの時、何が起きていたかというと、まず、Qちゃんが給水を取れなくて、山口衛里さんがドリンクボトルを渡したんです。Qちゃんはそれが嬉しくて、隣りにいた私に、私は給水を取るつもりはなかったんですけど、ボトルを渡してくれました。そんなことは初めてで、嬉しさからグッときてたんですけど、次の瞬間、Qちゃんがスーッと(スパートをかけた)。私は慌てて、飲まずにボトルを捨てて追いかけたという。後から聞いたところ、Qちゃんは、先輩の山口さんからもらったボトルを、後輩の私に渡せることが嬉しくて、あのタイミングで行こうと思ったそうです。今では、日本オリンピック代表の3選手が、給水のドリンクを渡していった、素晴らしいエピソードとして小学校の道徳の授業で取り上げられています。

中野 そんな裏話があったんですね。市橋さんが27kmくらいでトップ集団から離れた時、何があったんですか?

市橋 Qちゃんのスタートダッシュについていったのが、前太ももに効いてしまいました。走りながら筋肉痛になるくらいでしたね。必要な筋肉がなかったのかなと、自分では思うんですけど。

中野 シドニーの後、市橋さんが出場した北海道マラソンでお会いしたので、いろいろアドバイスしたかったんですけど、当時はまだフィジカル専門のトレーナーが陸上の監督とコミュニケーションをとる風潮があまりなく、私も怖くて中々近づけなかったことを覚えています。

市橋 男性と話したら駄目という監督でしたからね。私自身も、話しかけるなオーラを出してて、昔はインタビューでも感じ悪かったです。最近のアスリートや監督は、ちゃんとメディア対応してすごいですよ。

中野ジェームズ修一 × 市橋有里

市橋 オリンピックの前にスイスのサンモリッツで高地トレーニングをしていたんです。そこで、一局だけ取材を受けることになって、撮影の時間を決めていたんですけど、約束以外の時間に、茂みの中でカメラを構えていて。ミーティングで「カメラありましたよ」と言ったら、監督が激怒……。

中野 選手たちは、きつくなってくると、自転車でついてくるカメラマンが視界に入るとイライラしますし、音も気になって集中力が切れてしまう。見えないところで撮影してくれと言っても、カメラマン的にはいいアングルで撮りたい。それで、モメることはあります。

――シドニーオリンピックでは、メダル獲得に対するプレッシャーはありましたか?

市橋 プレッシャーというより、日本人選手は強かったので「みんな取れるんじゃない?」という感じでした。私が当時いちばんつらかったのは、選考の問題です。女子マラソンって毎回選考で揉めるじゃないですか。私の時は、弘山晴美さんという地元が一緒で、恩師も一緒の人がいたんです。私は世界陸上で2位だったので先に代表に決まっていて、次に山口さんが決まり、最後のひと枠がQちゃんになって、弘山さんは選考に漏れてしまった。それで「(私ではなくて)弘山さんを選べばよかった」と言われてしまって……。オリンピック前、陸連にカミソリが入った封筒が送られてきたこともありましたし、22歳にはつらかったです。

アスリートフードマイスターから見る
フルマラソンのための3ヶ月食生活

――市橋さんは、アスリートフードマイスターという資格をお持ちですね。どんな資格ですか?

市橋 トップアスリートから子供まで、スポーツをしている人が最大限にパフォーマンスを発揮できるように、食からアプローチしていくための資格です。私自身、食いしん坊で料理も大好き。現役の時からずっと自炊をしていたこともあって、どういうものを食べると強くなれるのかを常に考えていたので、引退してから食の分野でも活躍できたらいいなと思って取りました。

中野 100歳まで健康に過ごすための食生活の話ですね。タンパク質は、若い内は少々でも筋肉を構成できるんですが、年齢が高くなるとある程度量を摂らないといけなくなるので、本当は、おじいちゃんおばちゃんのほうが肉の量を増やさないといけない。日本人には、粗食=健康的というイメージが強いですが、肉をちゃんと食べられることも健康のバロメーターなんです。

市橋 この前ご一緒したトークショーでは、牛乳の話もされていました。

中野 スポーツ栄養士学会でどの人の発表を聞いても、「食事はバランスよく取りましょう」と言っており、摂るべきいろんな食材の中に牛乳が入っています。栄養のプロがそう言っているのに、一部の人が言う「牛乳は悪」ということを信用していることが、僕には滑稽に見えるんですよね。

市橋 牛乳とよく比べられる豆乳のほうが、オシャレなイメージがあるのかなって思うんですが。

中野 外国人が豆乳を飲むのはわかるんですよ。豆製品を摂っていませんから。でも、日本人は納豆も豆腐も食べてるので、いまさら豆乳でなくてもいいと思います。

市橋 確かに、牛乳が駄目だから豆乳を飲んでいるのに、夜になったらチーズとワインで乳製品を摂ってるじゃないって。

中野 そうそう。本当によくわからないですよね。

――『KIP』では、森永乳業の方に来てもらい、牛乳について話した回がありました。中野さんがトレーニングをみている青山学院大学駅伝部の生徒たちに、牛乳を飲むことを奨めている理由は?

中野 寮の食事は、バランスはもちろん考えられているけど、選手によっては練習量に対して量が足りない場合もあるのです。でも、選手はお金がない。なので、コンビニで手軽に買えて、タンパク質もカルシウムもしっかり摂れる牛乳を飲むようにさせました。疲労骨折予防のためにも、牛乳は重要だと思います。

市橋 私は、小学生までは牛乳が嫌いで、中学で陸上を始めてから頑張って飲んだんです。中学生から陸上を続けている間はそれこそ毎食。牛乳がない時は、ヨーグルトを食べていました。そのおかげか、骨折はしたことがありません。

――アスリートフードマイスターという観点から、フルマラソンに挑戦する人の食事をサポートするとしたら、どんなメニューを考えますか?

市橋 一般的にフルマラソンへのチャレンジが始まる3ヶ月前から、1ヶ月ごとにメニューを考えます。最初の1ヶ月は体脂肪をおとす、2ヶ月目は筋肉をつける、3ヶ月目には炭水化物を取り込める身体になるようなプログラム。1ヶ月目は、走り込んだりもするので、食べながら体脂肪を落とせるように、低脂肪高たんぱくなものを食べてほしいですね。

――走るとお腹が減るじゃないですか。だから、走りながら体脂肪を落とすのは無理なんじゃなかと思うんですが。

中野 そこが大きな勘違いなんです。高カロリーのものでも栄養価が高ければ太りません。お菓子だとか栄養価のほとんどないものを食べるから、身体は脂肪を蓄積しようとするし、筋肉量が落ちてしまうんです。1日の摂取カロリーが1000kcalを切ってるのに、体脂肪率が35%の人とか平気でいるんですね。ガリガリだけど体脂肪はあるのは、カロリーより栄養価の問題です。野菜、海藻類、きのこ類、豆類と、バランスよくいろんな食材を食べれば、総カロリーが上がっても太りませんよ。

市橋 夏場、そうめん単品を食べるよりも、具だくさんの冷やし中華を食べるほうがいいと言うとわかりやすいでしょうか。

中野 おにぎりとハンバーガーなら、炭水化物しか摂れないおにぎよりも、肉や野菜の入ったハンバーガーの方が、栄養価が高い。そうやって考えてほしいですね。

中野ジェームズ修一 × 市橋有里

――シドニーオリンピックを走る時はどんな食事を?

市橋 オーストラリアに入る前のニュージーランド合宿では、脂の少ない牛肉をたくさん食べていました。それだとパサパサしていて美味しくないので、オリーブオイルとハーブを入れてマリネして、サラダやグリル野菜を付け合わせて。良質な植物油は、すごくいいです。

中野 栄養士や調理師は帯同してなかったんですか?

市橋 いなかったです。

中野 高橋さんにはついたんですよね。

市橋 ええ。マッサージの人もいたし、完全体制。私は、男性に身体を触らせるのが駄目で、自分でマッサージもしてました。

中野 有森さんにもついていたし、市橋さんはよくひとりでやってましたね。すごいな。

――オリンピックの選手村では、どんな食事が出るんですか?

市橋 マラソンはVIP待遇で、通常、選手村には入りません。私は、監督が陸連の関係者だったので選手村に入ったんですけど、フードコートには、マックもあれば韓国料理もあって、多国籍でしたね。学食みたいなイメージで、すべて無料です。ちなみに、そこで食べたマックが人生初でした。

中野 リオオリンピックの時は、日本人の選手やスタッフ用には、JOCの人たちが作ったジャパンハウスで食事が提供されていました。バランスもいいし、美味しかったんですが、そこに行くまで選手村からバスで40分かかってしまう。選手にしたら練習が終わって、バスに揺られて酔うくらいなら、部屋に戻り、炊飯器でご飯炊いてレトルトを食べたほうがいいという考えになってしまう人もいたようです。2020年に東京でオリンピックが開催されますが、「東京ならすごいものが出るだろう」と今から期待されてますよ(笑)。

――ナショナルトレーニングセンターの食事はどうですか?

中野 低脂肪高タンパクの食事で、美味しいです。カメラで撮ると栄養価を計算してくれる仕組みもあります。ナショナルトレーニングセンターは、食堂以外にも、温泉も病院もあって、24時間トレーニングできてすごい施設。

走ることが楽しくなってきた今、
「おばあちゃんになっても走っていたい」

市橋 現役時代はもう修行? ではないですけど、テレビもパソコンも携帯もダメ、唯一OKだったのがラジオだったので世の中の楽しいことをあまり知らなくて。現役時代の反動で引退後は、羽根を伸ばし過ぎてしまいましたが(笑)。

――最後に、今後どんな活動をしていきたいか教えてください。

市橋 やっと今、ランニングを純粋に楽しめていて、10年ぶりにホノルルマラソンを走ります。たぶん、おばあちゃんになっても走ってるんじゃないかな。みなさんも走り続けてほしいです。

中野 アスリートほど追い込む必要はないですが、どんな方でも1日30分の運動で健康寿命を下げないことは大切です。