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(文 村岡俊也 / 写真 藤巻翔・松田正臣 / 動画 TOTAL TIME 10:00 記事最下段

「夜は一人で走りたかった。自分の素の感覚100%で走ると、また違う走りができるんですよね。野生動物のような感覚になれる。すでに100km走っているんだけど、身体が突然また動き始めるんです。過去にそういう感覚になったことは数回しかなかったんですが、今回もありましたね。疲れがなくなって、もう無敵の状態(笑)。『スーパーマリオ』のスターを取って、川も関係ないような。あのメロディがなっているような(笑)。湿地帯なのに、スムースに滑らかに。それはもう本当に気持ちよかったです」

圧倒的なランナーズハイによって、ヤマケンは自身を解放しながら夜を抜けることに成功していた。途中まで共に走っていた選手が丸太を渡る際に川にハマってしまったのを救助したり、満月の中、登りではライトを消して月明かりのみで走ってみたり、いくつもの物語を抱えながら、孤独を手なずけて、夜を抜けた。

(写真 上:松田正臣 写真 下:藤巻翔)

白み始めた「el Pas de la Casa」の街は、5℃とかなり冷え込んでいる。けれど、空気が淀んでいるような鈍い朝。状況が動き始めたのは、5時を過ぎたあたりか。現在2位であるという情報と共にもたらされたのは、エイドステーション、つまりチェックポイントをひとつ飛ばしてしまったのではないかという情報だった。失格? 口にはせずとも、頭の中によぎる。
5時30分。ヤマケンが帰って来る。大声で迎えようと待ち構えていたはずが、「失格?」の文字がちらついて、言葉が出ない。ヤマケンにも、疲労感が見えるようだった。

「夜、すごく良い感覚で走って来たんで、よっしゃって思っていたんですけど、エイドがひとつないなと。やけに遠いなと思っていたら、エイドをとっくに通り過ぎているはずの国境に出てしまった。ああ、俺はもう今回は、失格だなと。そこでウキウキだった気持ちが一気にローになっちゃって。もう終わりかと。気持ちは、身体にも絶対に影響するんです」

エイドで補給をしながらスタッフと会話を交わす。どうなるのかは現段階では分からないが、「気にする必要ない」「GPSも持っているから問題ない」「とにかく集中すること」「失格でもゴールまで行こう」と声をかけられる。さらに、同行するトレーナーに子どもが誕生したことを告げられ、少し表情が変わった。頭が働いていないためかうまく言葉を返せていないが、少し意識が変わったような表情があった。

次のエイド。8時2分。やってきたヤマケンは、笑顔だった。一度落ちてしまった気持ちをいかに切り替えたのか。レースを最後まで楽しむためにはどうすればいいのか、本能的に分かっているからか、「いやー、すごい景色だったよ!」と、鼓舞するように大きな声を出す。「雲海がすごかった。雲の上を歩いたよ」と笑って、「コングラッチュレイション!」と子どもが生まれたトレーナーと固く握手を交わす。走りながら、自分の娘たちのことを考えていたのだろうか。なんと声をかけるか考えていたはずだ。あれほど疲労感のある表情だったのに、ヤマケンは、このわずかな間に、再び生き返った。

「もう、いいかなって思っちゃって(笑)。せっかくアンドラまで来たんだから残りを楽しまなきゃって思ったんです。ここで終わるより、ゴールまで行って終われれば良いかなと。単純なんですよ(笑)。大きな山があったんで、登っている間に忘れちゃいました。楽しい方に行っちゃうんです」

結局、GPSを持っていること、黙視でダブルチェックしていることなど、エイドをひとつ飛ばしたことは何の問題もなかった。「本当に走るのをやめなくて良かった」と、後からならば笑い飛ばせるが、あっという間に切り替えたヤマケンのメンタルの強さが光った出来事だった。人間が山の中を走っているのだから、予期せぬ事象がさまざま起こる。その偶然の産物を楽しむことができなければ、走る意味などないのかもしれない。

激しい頂上部に比べ、谷間は牧歌的な美しい風景が広がっている。石積みの家に、ゆるい斜面の牧草地帯。その間を川が縫うように通っている。9時過ぎ。スタートから26時間を経過し、未知の時間帯へと踏み入れているヤマケンには、この景色が少し違って見えていた。コース脇のマーキングされた石がフクロウの彫刻に見えたり、朽ちた木が、まるでカメラマンが座っているようだったり。幻覚が見え始めていた。

「気持ちよく走ってはいるんです。身体もかなり消耗していたんだけれど、頭もふわふわした感じ。しゃべっていても自分じゃないみたいな、変な感じでした。この時期のアンドラは夜がやってくるのが遅くて、日が暮れきるのは22時ごろだったから、15時間くらいまではすーっと行っちゃって。夜が明けるのも早かったから、あれ、もう24時間経ったのかっていう感じでしたね。その後は、ふわふわしながらも、ああ、もうすぐ終わっちゃうんだって思ってました」

(写真 藤巻翔)

11時20分。最後のエイド。またしても道に迷ったという情報が入るが、早朝ほどの慌てた空気はない。恐らく意識が朦朧としているのだろう。失格を心配するよりも、身体の無事を思ってしまうが帰って来たヤマケンの表情は明るい。「マジで焦ったよ」と笑いながらやって来て、「次はゴールで!」と、楽しそうに走っていく。そう、ヤマケンはまだ走っている。そろそろ30時間にさしかかるというのに、まだ走っている。痛いはずの膝を庇うように、少しよろけるように。

「ゴールの最後のところでは、できるだけ多くの人にグラシアスって言いたかったんで、ゆっくり歩かせてもらいました。まあ、もうね、あの瞬間が一番良いですよ。充実感に包まれた、最高の瞬間」

(写真 松田正臣)

道端の観客とハイタッチをしながら、ゆっくりと歩いて来るヤマケン。恍惚の表情と呼ぶのだろうか。涙ぐんだような、神々しい顔をしている。ゆっくりと味わうようにゴールして、家族が作ってくれたTシャツを着て、「my daughter」と胸を差し示している。同行スタッフと抱き合い、雄叫びを上げている。その一挙手一投足がスローモーションのように見えるのは、壮絶な道程をリアルに想像することができるからか、同じ31時間という時間の共有があるからか。ゴールはつまり終わりを示していて、もう走る必要のないことにヤマケンは馴染めないでいる。ウロウロと歩き続け、握手と抱擁をしばらく繰り返していた。ゴールは、長い旅の終わり。手元のメモでは、31時間9分58秒。第二位のフィニッシュだった。

翌日の夜、レース前の節制から解放されて、ようやくパエリアを食べることができたヤマケンと、打ち上げの席で少し真剣な話をした。高校教師を辞めて、レースに集中する気はないのか?2位という結果はそれを可能にする実績ではないか?など、アスリートとしての未来を訊ねる質問を重ねてしまう。するとヤマケンは、「そうっすね」と照れながら、「高校の先生って、すげー楽しいんですよ。大好きなんです」と複雑な表情を浮かべた。本当はアスリートとしてだけ生きたいと思っているのかもしれない。人生のようなレースが終わって、すぐにまた新たな日々が始まる。「でも、アンドラはもう一回出たいですね。次は、コース変更なしの本当のルートで。地図を見たら、やばい登りでしたけど、きっと直登するんですよ。あれ。また、ここに来たいな」と真っすぐな表情で笑った。

(山本健一アンドラドキュメント#03 TOTAL TIME 10:00 |撮影 松田正臣・よつもとしゅんすけ)

 

▶山本健一 アンドラ170km・未知への挑戦 #01スタートラインに立つ

▶山本健一 アンドラ170km・未知への挑戦 #02 人から力をもらう能力

  • 山本健一

    山梨県出身。高校時代は山岳部に所属しインターハイで優勝。

    大学ではフリースタイルスキーに熱中。
    現在は高校の体育の教師として山岳部の顧問を務る。
    2008年の日本山岳耐久レースで優勝し、一躍注目を集め、2009年はツールドモンブランに挑戦し、8位と健闘。2012年 グランド・レイド・デ・ピレネー優勝。

  • トレイルランナー山本健一の活躍を支えるスウェーデン発のウェアブランド『HOUDINI』は、フリース素材のアンダーウェア開発のパイオニアであり、機能美を優先するデザイン哲学により、世界中のエクストリームスポーツアスリートの高度な要求に対応したスポーツウェアを開発し続けています。その経営方針は、自然環境に不可を与える生産を行わず、持続可能なビジネスを目指すというもの。全てのプロダクトは開発チームと、スポーツのスペシャリストであるHOUDINI フレンズによりテストが繰り返されています。トレイルランナー山本健一もそのHOUDINI フレンズの一員です。
    http://houdinisportswear.jp/