キッチンから、バナナとチョコレートの焼ける甘い匂いが漂ってきた。明日は久々にプライベートでの登山なのだ。山での行動食にしようと、マフィンを焼きながら、今この原稿を書いている。小麦粉やベーキングパウダー、イースト菌を触る度に、アラスカ原野でのピザ教室を思い出す。私のベーキング技術の基礎となっている、シンプルで大胆なピザ教室を。

5年前、私は大好きなアラスカの大地を、もっと自由に自分の足で歩けるようになりたいと、アラスカの野外学校(NOLS:National Outdoor Leadership School)の門を叩き、一夏を原野で過ごした。グリズリーが自由に生きる広大な原野や、青と白の世界広がる氷河の山の中へ1ヶ月単位の遠征に出て、原野で生き抜く実践的な技術を実地で学んでいく。その際に持って行く食糧は、メニューが予め決められているわけではなく、遠征中に必要な栄養素とカロリーを計算し、原材料を袋詰めにしたものだ。炭水化物でいえば、小麦粉、コーンミール、オートミール、マカロニ、クスクス、マッシュポテト粉、米・・・といった具合に。

これを、3人のチームで、メニューを工夫し調理していくのだが、最初に手に取るのは、マカロニや米など、調理が簡単で分かりやすい食材だ。どうしても最後に残るのが白い粉、即ち小麦粉で、この白い粉袋をみても、脳裏で美味しそうな料理に結びつけられない。これは私だけではなく、アメリカ人の他の生徒たちも同じ状態で、しばらくは、水で練って焼いたチャパティもどきや、煮込んだスイトン風スープを作っていたが、あまり美味しくないのが現実だった。

閉口した我々が、インストラクターに相談しにいくと、「スパイスキットの中にイースト菌の瓶があるだろう。ピザを作ったらどうだい?」と事も無げに言う。
思いがけない提案だった。その当時の私にとって、ピザは作る物でなく買う物だった。郵便受けに入ったチラシに書いてある番号に電話をすれば、30分以内に、熱々の焼きたてが手元に届く。それが、都会で生きてきた私の考えるピザの入手法だ。そんな人間が、大自然の真っただ中で、ピザを生地から作ろうなんて思いつくはずもない。だいたい、イースト菌とベーキングパウダーの違いもよく知らない。
困惑した表情を浮かべる私たちを見かねたインストラクターが、急遽、「青空ピザ料理教室」を開いてくれることになった。

最初は、イースト菌の使い方から。
「イースト菌は生き物なので、食べ物、つまり砂糖が必要だ。そして温度。温かくしてあげないと動き出せない。指を入れても熱くない程度のぬるま湯を注いであげて、5分待つ。すると、プクプクと泡が出てくるだろう?」

大胆な料理教室だった。バックパッキングでの遠征中ゆえ、使える調理器具は限られている。重さを量る計器などはないので、粉と水の割合は「耳たぶくらいの軟らかさ」と触感で決められた。捏ねた生地は、しばらくの間37度の温度で発酵させる必要があるのだが、それには体温が使われた。ビニール袋に入れた生地を、お腹とジャケットの間に入れておく。30分後、2倍の大きさに膨らんだ生地を、フライパンを逆さまにして作られた即席の台の上で伸ばし、延べ棒代わりの水筒で、ピザ型に成形する。
トマトソースを作り、チーズとドライトマトを散らし、焼き上げること10分。目の前に、美味しそうなピザが出現した。

衝撃的な体験だった。都会生活では、欲しいものはお金で買える。だがここでは、いくらお金を積んでも、電話も、宅配してくれるピザ屋も存在せず、食べたければ小麦粉を自分で捏ねるしかない。
逆にイースト菌の使い方の基礎を知っていれば、メニューは一気に広がる。ピザだけでなく普通のパンも、シナモンロールだって食べられる。遠征中の食生活が、ぐんと豊かになる。アウトドアの鉄則、「最強の装備は自分の能力」を、身を持って感じた瞬間だった。

他人が作ったものをお金で買うという手段があるのは文明の進化で、生活を便利で快適にしてくれる。だがそれに頼り切らず、自らの手で作り出すという力は、本当は忘れてはいけない大切な能力ではないだろうか。

写真・文 青崎 涼子(あおさき りょうこ)
1972年生まれ、東京出身。仕事で訪れたことがきっかけで極北の大自然と人々の生き方に魅せられ、アラスカのアウトドア・リーダーシップスクールNOLSへ入学。文明から離れ原野や氷河を旅しながら、背中に背負った30キロの荷物一つで生きる術を学ぶ。
現在は、極北の大地を自分の足で旅するとともに、ヨーロッパやカナダでのトレッキングガイドや、極北の自然を楽しめるアドベンチャーツアーのコーディネートを行う。
ブログ「青の洞窟」(http://aonodokutsu.blogspot.com/
ツイッター( @wildernessryoko )

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