その日の海は凪いでいた。
サンドイッチとトレイルミックスの昼食を終え、ライフジャケットを枕にして、浜辺に横になる。太陽光を受けキラキラと輝いている海面に目をやると、ラッコ親子は腹の上で貝殻を割るのに忙しい。アザラシたちは、海坊主のようなツルンとした頭を出し、丸い鼻の穴を膨らませながら、異端者である私たちの姿を遠くから伺っている。氷河が削り取った土砂のせいで、海は、特有の淡い青を帯びた冷たい鉛色をしており、ここが北の地なのだということを思い出させる。私たちは、氷河への扉が開くのを、今か今かと待ち続けていた。

8月、アラスカ、スワード半島。フィヨルドの地形が重なるこの地は、海に流れ込む多くの氷河で有名な場所だ。クジラやシャチなどの海洋野生動物も多い。
氷河と野生動物。この二つをシーカヤックで楽しもうと日本からやってきた6人のメンバーは、それぞれ忙しい仕事の合間を縫って、一週間の夏季休暇を取り参加している。忙しい日本の基準で言えば、その長さが精一杯の、貴重な一週間だ。
日本からアンカレジまで、飛行機を乗り継いで丸1日。翌日、半日かけて、スワード半島の先端の港町まで移動し、さらに、チャーターボートに揺られて4時間。こんなにも遠路はるばるとやって来て、ようやく得られたシーカヤックの時間なのに、氷河に近づくこともできず、のんびりと、アザラシの海面モグラ叩きゲーム鑑賞をしている私たちは、何だか滑稽だ。

だが、焦ってもしかたがない。この日、目的としているペダーソン氷河は、1日1回、多くても2回しか入れないのだ。この氷河の先端は湖に注ぎ込んでおり、普段は海から断絶されている。唯一、潮が十分に満ちたときのみ、湖と海との間に細い水路が現れる。その水路を使って、氷河へと近づきたい私たちは、満潮の時刻を待つしかなかった。
月と地球の引力が生み出す、海水の満ち引きの存在、その時間帯も潮の高さも毎日変化しているなんて、海の旅を始めるまでは、考えたことすらなかった。極北を旅するようになり、太陽や月や風や雲の存在が、ぐっと身近になった。人間の予定でなく、地球の息づかいに合わせて動かざるをえない場面は少なくない。
東京時間に引きずられたままでいると、イライラしがちなこの待ち時間も、数万年前に降った雪が作り出す氷河の欠片や、やはり気の遠くなるような時間をかけて作られた氷河谷であるフィヨルドの地形を目の前にしては、潔く諦めざるをえない。

午後5時。満潮まで1時間を切った頃、ようやく扉は開いた。
それまで寝転んでいた砂浜に小川が現れ、かなりの速さで、海から湖に向かって海水が流れ出す。シーカヤックに乗り込み、流れに乗って漕いでいくと、目の前に、大小さまざまな形の氷塊が現れる。流れ出した氷塊から、数万年前の気泡が、途絶えることなくパチパチと弾け、BGMを奏でている。氷河を一撫でして降りてくる風は、パドリングで火照った頬と手を、あっという間に冷やしていく。氷が音を吸収するせいだろうか、風のかすかな音でさえ静けさの中に吸い込まれ、当たりは静寂に包まれている。
その幻想的な光景と音の無さに圧倒され、漕ぐ手を止める。しばしの間、自分たちも氷塊の一つとなり、静かに海に漂う。穏やかで悠久な地球の時間が、そこには流れていた。

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2012年3月24日(土)~3月31日(土) 8日間
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写真・文 青崎 涼子(あおさき りょうこ)
1972年生まれ、東京出身。仕事で訪れたことがきっかけで極北の大自然と人々の生き方に魅せられ、アラスカのアウトドア・リーダーシップスクールNOLSへ入学。文明から離れ原野や氷河を旅しながら、背中に背負った30キロの荷物一つで生きる術を学ぶ。
現在は、極北の大地を自分の足で旅するとともに、ヨーロッパやカナダでのトレッキングガイドや、極北の自然を楽しめるアドベンチャーツアーのコーディネートを行う。
ブログ「青の洞窟」(http://aonodokutsu.blogspot.com/
ツイッター( @wildernessryoko )

【極北に魅せられて アーカイヴ】
#01 Labour of Love カナダで犬橇 前編
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