今思えば、到着1時間後に、ボン!と豪快な音を立てて壊れたストーブが、不吉な運命の予兆だったのだ。

数年前の8月初旬。
私は、メンバー7人とともに、カナダ最高峰、マウント・ローガンを写真に収めるべく、巨大な氷河の真ん中にいた。
アメリカ最高峰であるマッキンレー山が世界的に名を馳せているのに対し、カナダの最高峰のローガンの知名度が低いのは、それが幻の山だからだ。標高5995mのローガンは、カナダとアラスカの国境、氷河が連なるセントエライアス山脈の最奥に位置しており、道路からはその姿を拝めない。

だが、世の中、探せば方法は出てくるもので、大学の研究者たちが基地にしている氷河上の仮設テントが、一般にも開放されていた。ファイアーウィードの花が咲き乱れる夏のクルアニ湖から、2人乗りの小さなセスナ機に乗り込み40分、真っ白な氷原の上、正面にローガンの雄姿が聳える、仮設テント基地へと到着だ。

天気は雲一つない快晴。目の前に、憧れ続けていたローガンの姿。
気分はどうしたって盛り上がる。この貴重な1日を無駄にしてはならぬと、歩き回り、写真を撮り、持ってきたビールで乾杯する。
仮設テントの中にひとつだけある小さなストーブが、到着後すぐに壊れたことなんて、全く気にならなかった。ここに泊まるのは1泊だし、予め、マイナス10度の気候にあわせた服装はしてきている。誰もが、高揚した気分のまま、何も疑わず寝袋に潜り込み、平和で充実した1日を終えた。

ところが翌日、目が覚めると世界は一変していた。全て雲に覆われ、灰色の世界が広がっている。迎えに来るはずの小さなセスナ機は、有視界飛行のため、視界が悪いと飛ぶことはできない。朝、この日は天気の回復を待って、1日待機となった。
まあ、仕方ない、こんなこともあるさ。この日は、そんな気分だった。この後の旅のスケジュールを変更しなくてはならないのは残念だが、日本への帰国日まではあと4日ある。食材庫には、まだ10日分ほどの備蓄がある。ホワイトアウトの真っ白な世界の中、GPSを頼りに近くの岩場まで探検に出かけることにした。

3日目。
天候変わらず、朝の無線で「今日も無理、また明日ね」と言われ、この日の希望は途絶えた。持ってきたビールが尽きる。時間と体力が有り余っているので、テントの前に、イグルーと雪だるまを作る。

4日目。
天候変わらず。途切れがちな無線からの声は、いつもの「また明日」。日本帰国便に乗るための時間の猶予はあと1日。メンバーの一人が持っていた文庫本は、もう全員が回し読みし終えた。

5日目。
ああ、絶望的だ。いったい、青空はどこへ行ったのだ?緊急用の衛星電話で、日本へ「氷河軟禁状態につき帰国遅れる」と連絡を入れる。私は、いつここ脱出できるのか。

毎朝、無線を通して途切れ途切れに聞こえる、「駄目だ、今日も天候が悪い。また明日連絡してくれ」という無慈悲な宣告の後、私たちの前にあるのは、24時間の空白だった。日本帰国の日程や、残してきた仕事が気になるが、天気が相手ではどうすることもできない。求められているのは、潔い諦観である。果てしない無力感が、真っ白い世界に溶けていく。

自然の悪戯に絶望的になりながらも、救いとなったのは一緒にいたメンバーだった。誰も、不平も不満もイラダチも見せることがなかった。散歩し、ロープワークの練習をし、限られた食材で創造的な食事を作り、人生について哲学的に延々と語り合いながら、いつ終るとも分からない、無為の時間をつぶしていった。小さなテントの世界が、険悪な雰囲気になることは、一度だってなかった。

5日目の夕食後。
永遠に続くかと思われた灰色の世界がいきなり途切れ、待ちに待っていた青空、そして地平線の先に久々にローガンが姿を現す。たった4日間で、秋は近づいてきていたようで、白夜は終わりを告げ、1等星が見えるほどに、夜には暗さが戻って来ていた。夜中、その年初めて目にするオーロラが、暗くなりきっていない濃紺の空を、やわらかく舞い続ける。

翌朝、私たちを下界に戻してくれるセスナ機の爆音が、空の遠くから聞こえてきた瞬間の安堵感は、どうしたら伝えられるだろう。

東京にいると、日々は、分単位のスケジュールで刻まれていく。時速200kmを超す新幹線だって、1分の遅れもなく走っているのだ。誰もが、「無駄のないように」生きている。旅に出るときも、山へと向かうときも、つい、そんな、いつもの癖でスケジュールを組みがちだが、自然はそんな私の都合なんて、これっぽっちも考えてくれはしない。

予定が狂うことへの潔い諦め、または、十分な予備時間を取る余裕、そして、不測の事態にも冷静に対処できる仲間こそが、最新の技術が詰まったアウトドアギアよりも、大自然を旅するときの、ずっと大切な持ち物だ。

写真・文 青崎 涼子(あおさき りょうこ)
1972年生まれ、東京出身。仕事で訪れたことがきっかけで極北の大自然と人々の生き方に魅せられ、アラスカのアウトドア・リーダーシップスクールNOLSへ入学。文明から離れ原野や氷河を旅しながら、背中に背負った30キロの荷物一つで生きる術を学ぶ。
現在は、極北の大地を自分の足で旅するとともに、ヨーロッパやカナダでのトレッキングガイドや、極北の自然を楽しめるアドベンチャーツアーのコーディネートを行う。
ブログ「青の洞窟」(http://aonodokutsu.blogspot.com/
ツイッター( @wildernessryoko )

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